伝説の「女傑」渡辺あさ野

ワコールは日本企業としては珍しく、女性が支えてきた会社と言っていい。その歴史の中で何人もの伝説の“女傑”が現われるのだが、渡辺はその筆頭と言ってよかった。

渡辺は幸一より一つ年下の大正10年(1921)生まれである。

晩年の渡辺あさ野(筆者撮影)
晩年の渡辺あさ野(筆者撮影)(出典=『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』)

京都市右京区嵯峨清滝町の農家の10人兄弟の末っ子で、彼女が2歳の時に父親が亡くなるとすぐに家は貧窮し、母親は朝から晩まで必死に畑仕事をして働いた。それを見て、早く自分も働いて楽をさせてあげたいとばかり思っていたという。

栄養失調でバケツも満足に持てないような体であったにもかかわらず、10歳の時から料理屋の皿洗いとして奉公に出た。幼児虐待ではないかというのは現代人の感覚だ。この当時(昭和6年)、東北の冷害が深刻で娘の身売りが盛んに行われていた。それほど、この国は貧しかったのだ。

「人間、生まれたときはみな丸裸ですけれど、私の場合、その丸裸に着せる物がないというぐらいの貧乏な家に生まれたんです。だから小学校も行ってないです。字は看板で覚えました。酒屋のとこに“酒”と書いてある。あれが酒という字やなってね」

筆者が取材した時、彼女はそう述懐した。

そして15歳になったとき、大阪市旭区にあった海軍陸戦隊の工場で働き始める。学歴も学力もなかったが、海軍は彼女の地頭の良さを見抜き、就職を許可した。

するとすぐに頭角を現わす。とにかく数字に強いのだ。たちまち計算尺を使いこなすようになると、それを駆使し、落下傘製作の際の流体力学的問題についても専門家のような発言をするまでになった。

海軍工場仕込みの生産工程管理の技術

何より得意だったのが、多くの部品からなる製品を大量かつ均質に生産する手法、フォード方式とも呼ばれるオートメーション生産の工程管理である。はっきりものを言う男勝りの性格もあってリーダーシップは十分。若くして彼女は現場を仕切る立場に抜擢された。

だがここで終戦を迎える。海軍の施設は当然操業停止となり、失業してしまう。

それでも優秀な彼女は、この混乱期をたくましく生き抜いていく。その腕を買われ、京都の四条大宮にあった内外雑貨という会社に勤めることになったのだ。

軍の横流し品である落下傘用の絹地や伸縮性のあるメリヤスを材料に子供服を作ってくれという依頼である。彼女は期待に応え、海軍仕込みのノウハウでたちまち大量生産のラインを作り上げると、5、60人の職工を指導するようになった。

この当時、物資は統制されて配給制度になっている。本当は衣服も配布された衣料切符と交換にしか販売できないのだが、内外雑貨は闇商売をやっていた。

そんなことから、渡辺は警察に引っぱられたこともある。だが、戦争に負けてアメリカに尻尾を振っているような日本の男にとやかく言われる筋合いはない。

「子どもが裸足でおちんちん出して町の真ん中歩いてるんですよ! 着るもんなかったらどないするんですか?」

尋問している警察官がほれぼれするような啖呵を切って釈放してもらった。