「近江商人」の名門・塚本家
まず、ここで塚本幸一の生い立ちと、彼の中に流れる近江商人の血について少し触れておきたい。
塚本幸一は大正9年(1920)9月17日午前8時、宮城県仙台市で、父粂次郎、母信の長男として生を享けた。
両親ともに近江の出身だが、近江商人は様々な土地に進出しており、仙台もその一つだった。
彼らは地方にビジネス上の本拠を置いても、近江の屋敷を残し、二重生活をしている者が多い。そうすることで近江商人の伝統は途切れず、人材は再生産されていったのだ。塚本家もそうした近江商人の一族だった。
近江商人の中でも塚本一族はとりわけ名門だった。すぐ途絶えた家もあったものの、子孫はおおむね代々家と名前を継承していった。
粂次郎は商才に恵まれていたが、父親である初代粂次郎同様、一攫千金を夢見て一か八かの賭けを好むところがあった。従兄弟たちと一緒に三品(綿花、綿糸、綿布)の先物相場に手を出し、一時は大きく儲けたが、やがて致命的な損失を出し、塚本商店から追い出されてしまう。
粂次郎は妻信や二人の子を信の実家である近江八幡の岡田家に預かってもらい、文房具、呉服などの商売を経て、幸一が小学校4年生の2学期、家族を仕入れ先の集まっている京都に呼び、北野天満宮近くに店舗兼住居を構えた。
ワコールのもとになる「和江商事」を設立
幼い頃から商人になると心に決めていた幸一は、躊躇することなく滋賀県立八幡商業学校に入学した。ジャーナリストの大宅壮一が“近江商人の士官学校”と呼んだ商業学校の名門である。後年、人に出身地を聞かれると“近江八幡”と答えるのを常とした彼の原点がここにある。
昭和21年6月、インパール作戦の生き残りとして5年半ぶりに帰還し、本格的に商売を始めようと思った塚本幸一は、商号を定めることにした。それが今日のワコールのもとになる和江商事だった。
“商事”とえらそうな名前をつけたが個人商店にすぎない。だからしばらくの間は、幸一も社長ではなく“大将”と呼ばれていたし、社員でなく店員であった。
和江はもともと父粂次郎の雅号である。江州(滋賀県)出身だった粂次郎が、“江州に和す”という意味でつけたものだが、“長江(揚子江)で契りあった和”とも読める。幸一は長江をさかのぼり、中国の歩兵第六〇連隊に配属された。戦友たちの失った命の分まで頑張っていくと誓った思いを社名に込めたのだ。