「事業は人だ! 自分より学力のある偉い人物が必要だ」

貧しい母子家庭に育ったが周囲の助けがあり、横浜高等商業学校(現在の横浜国立大学)、東京商科大学(現在の一橋大学)へと進むことができた。栄養不足から来る脚気で大学を1年休学したことを除いては、幸運な学生時代を過ごすことができたと言えるだろう。

学徒出陣の際の中村伊一
学徒出陣の際の中村伊一(出典=『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』)

だが時代が彼を翻弄ほんろうしていく。エリートの特権として学生の間は兵役免除のはずだったが、学徒動員によって満州に渡り、幸一同様、生死の境をさまよう経験をする。

敗戦後もソ連に抑留され、酷寒の捕虜収容所で餓死寸前の状況に置かれた。

帰国も遅れ、昭和22年(1947)12月1日になって、ようやく引揚船で舞鶴港に到着。就職先がすぐに見つからず、とりあえず翌年の3月から八幡商業の臨時教員をして糊口ここうをしのいでいた。つまり木本とは職場の同僚というわけだ。

経営者の中には、自分がリーダーシップを維持し続けたいがために、自分を凌駕しそうな人材をそばに置かないケースもあるが、幸一は違った。

「事業は人だ! 自分より学力のある偉い人物が必要だ」

というのが口癖だった。

そしてその“自分より学力もある偉い人物”こそ、中村伊一その人だったのである。

背中を押した「占い師のひと言」

この時、中村には同じ八幡商業の同級生が経営する、もっと規模の大きい会社からの誘いがあった。それは実家に近い近江八幡に本社を持つ、滋賀県下でも有数のゴム靴卸商だった。

中村は悩んだ。そのゴム靴卸商との間で迷っているわけではなかった。もうこの段階で、その会社に行く気はほぼなくなっている。ただ彼がずっと抱き続けていた、学問の世界に進みたいという思いを諦めるかどうかで悩んでいたのだ。

今はすぐに難しくとも、世の中が落ち着けば、再び学問の世界に進む道が開けるかもしれない。しかし一方で、中村家の大黒柱として稼がねばならないという思いもある。

その時彼はふと、以前、滋賀県八日市ようかいちで評判の八卦見はっけみに占ってもらった時のことを思い出した。彼は後々まで占いや方位学などを重視しており、その萌芽がすでにあったのだ。

八卦見はこう言っていた。

「教育界に進んだら大学教授になれるかもしれん。じゃが、あんたには世俗的なところがある。一番向いているのは財界の巨頭と言われるような人間の側近としての仕事やろう」

いくらなんでも、当時の幸一が将来“財界の巨頭”になるなどと思うはずがない。だが“あんたには世俗的なところがある”という言葉が、商いか学問かで迷っていた中村の背中を押した。

こうして中村もまた、幸一と一緒に働く道を選ぶのである。自分の進んでいる道に間違いがないことを、中村の入社を通じて確認できた気がした。