八幡商業55期生の同窓会での出会い
そんな折、幸一たち八幡商業55期生の同窓会が行われた。
昭和22年(1947)8月、戦後初めてのことだった。出席者はわずか十数名。出征直前の同窓会で顔を合わせた同級生も、その多くが帰らぬ人となっている。当然のことのように、献杯で始まる会となってしまった。
この時、川口郁雄という同級生と再会する。柔道部の猛者で、学生時分からたばこを吸い、けんかで停学になったこともある乱暴者だが、その一方で大変な働き者であった。
実家が新聞販売店をしていたのだが、毎朝2時に起きて近江八幡駅に配送されてきた新聞を自転車に積んで12キロ離れた八日市まで運び、少し仮眠した後、学校に行って柔道の朝練をし、放課後にはまた柔道の稽古をして、夕刊の配達を手伝う。まさに驚異的な体力と根性の持ち主であった。
そんな川口は八幡商業を卒業後、三菱重工京都機器製作所に入社したが、わずか半年で召集を受け、戦後、職場復帰して給与計算の部署で働いていた。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神
学生時代はほとんど口をきいたこともなかったが、この際そんなことは関係ない。とにかく人が欲しい。八商出身なら即戦力になることは疑いなしだ。大企業である三菱重工で働いている人間を和江商事に勧誘することが無謀極まりないことなどはなからわかっているが、最初からだめだと諦めてしまっては何も起こらない。
彼は本気で川口を口説き始めるのだ。
一方の川口は、幸一の変貌ぶりに驚いていた。軟派な二枚目の優男だったはずの彼が、テキヤの親分のような迫力を身につけている。
もともと八幡商業には“鶏口となるも牛後となるなかれ”という精神が横溢していた。2人で一から新しいものに挑戦することに心惹かれ、驚くなかれ川口は、零細個人商店である和江商事への入店を決意するのである。
次に狙いをつけたのが、同じ八幡商業の同級生の中村伊一だった。
とは言っても、それは川口の勧誘を始めた1年後のことである。
中村は同窓会の時、まだ復員していなかった。酷寒の地シベリアに抑留されていたからだ。きっかけをくれたのは義弟の木本寛治だった。何度誘っても入社を承知してくれない木本が、自分の代わりにと紹介してくれたのが中村だったのだ。
中村も川口と同じく八幡商業柔道部に所属していたが、タイプはまったく違った。まじめで誠実、しかも勉強家。絵に描いたような好青年である。八幡商業時代の成績はずっと学年5位以内をキープし、首席で卒業した。