突如訪れた転機
宮仕えからわずか半年後、関白・道隆が建立した寺の供養が盛大になされた。このとき中宮・定子も列席し、清少納言ら女房たちも参列した。清少納言は、定子の側近女房である中納言の君と宰相の君と同座しており、一番ではなかったが、短期間に特別な扱いを受けるようになったことがわかる。
この翌年、清少納言の宮仕えは暗い影を帯びていく。長徳元年(995)、関白の道隆が43歳で病気で亡くなってしまったのである。道隆は跡継ぎの伊周を何とか関白にしたいと考え、伊周自身も一条天皇に自薦したが、まだ二十代前半だったこともあり、道隆の死後、その弟の道兼が関白に就いてしまった。
ところが前述のとおり、道兼は半月もしないうちに感染症で死んでしまう。前年から病が広まり、主だった公卿(現在の閣僚)14人のうち8人が感染死していた。
道兼の死後は、道隆の弟・道長(伊周の叔父)が右大臣に昇進、伊周を差し置いて氏長者(藤原氏の当主)となった。納得できない伊周は大いに反発し、二人は激しい口論をするなど対立した。その後伊周が、花山法皇と揉め、弟の隆家に命じて法皇に矢を射かける事件を起こし自滅したことはすでに述べた。
「枕草子」執筆の動機
結果、伊周は左遷され、定子も出家を余儀なくされた。この大変な時期、清少納言はどうしていたかというと、じつは里に引きこもってしまったのだ。彼女は道長一派ではないかと疑われ、定子のもとを離れざるを得ない状況になっていたらしい。
『枕草子』を本格的に書き始めたのはこの時期ではないかといわれている。これ以前、兄の伊周から大量の紙(草子)をもらった定子が、清少納言に「あなたにあげましょう」と下賜してくれたのが執筆動機になったようだ。
「この草子、目に見え心に思ふ事を、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたる」と閑居している間に、自分が見たことや思ったことを、自由に書き連ねたのだという。
だが、源経房が清少納言のところを訪れたさい、この草子を見つけてそのまま持ち帰り、人の目に触れるようになった。かくして『枕草子』は、貴族の間で大変な評判となり、清少納言の名を知らぬ者はいないほどになったのである。
しばらく里に引っ込んでいた清少納言だったが、誤解が解けたようで、再び定子に呼び戻された。一条天皇は定子を心底愛しており、出家した彼女を還俗(僧の資格をはく奪して俗人に戻す)させて寵愛し、娘が誕生、さらに皇子(敦康親王)が生まれた。だが、長保2年(1000)に次女を出産した翌日、定子は25歳の若さで死去してしまった。清少納言の宮仕えもここで終わったといわれる。仕えたのはおよそ7年であった。