平安時代の貴族で、現代では「学問の神様」として祀られる菅原道真は、どんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「実務能力に非常に長けていたが、傲慢な人物だったようだ。貴族界でアンチ道真の雰囲気が醸成されたのにも理由があった」という――。(第1回)
※本稿は、河合敦『平安の文豪』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
菅原道真の評価がグンと上がったある出来事
宇多天皇が道真に着目するようになったのは、阿衡の紛議がきっかけであった。
皇位についた定省親王(宇多天皇)は、太政大臣の藤原基経に「関白としてすべて政治を取り仕切ってほしい」という旨の詔を出した。基経は形式的にこれを辞退するが、天皇はそれをさらに形式的に退け、再び政務の総括を基経に要請する勅答を差し出した。ただ、その中に「阿衡の任を以て卿(基経)の任となすべし」と記されてあった。これが大問題に発展したのである。
基経の家司(家政をになう職員)をつとめていた文章博士の藤原佐世が「阿衡は単なる名誉職で、じっさいには仕事がない」と知らせたのである。これを聞いた基経は、「俺に仕事をするなということか」と怒り、一切の政務から手を引いてしまったといわれる。
通常、詔勅は中務省の内記と呼ばれる役人が起草するが、この文章をつくったのは内記ではなく、橘広相だった。
彼は菅家廊下の卒業生で道真の父・是善の教え子だった。学者として優秀で31歳の若さで文章博士に就き、その後は貞明親王(後の陽成天皇)の東宮学士(皇太子の教育係)となった。そして陽成天皇が即位すると、蔵人頭(天皇の秘書官長)をつとめ、続く光孝天皇の時代には文章博士に再任され、さらに参議にのぼった。続く宇多天皇も広相を「私の博士は、優れた学者」と呼んで重用した。