地方から返り咲いた
広相は、藤原基経を阿衡と謳われた殷の名宰相・伊尹にたとえたのである。しかしへそを曲げた基経は出仕しなくなった。これでは政治に支障を来きたすと考えた左大臣の源融は、この勅書の可否について紀伝道、明経道、明法道などさまざまな立場の学者たちに勘申(先例などを調べて上申すること)を命じた。
ただ、権力者である基経に対する忖度が働いたようで、やはり「阿衡には職掌がなく名誉職にすぎない」との報告がなされた。橘広相はこの結果に毅然と反論したが、宇多天皇は仕方なく基経に政治がとどこおらないよう、出仕してほしいと頼んだのである。
広相も事態をはばかって引きこもるようになった。貴族社会では、広相を処罰すべきだという声が高まり始めた。一方、基経はそれでも顔を出そうとしなかった。これまでも気に食わないことがあると、出仕しなくなることがよくあったが、今回はかなり長期に及んだ。
基経がかたくなな態度をとったのは、宇多天皇が親政を目指したので牽制するためだったという。くわえて、広相が娘を宇多天皇に輿入れさせ2人の皇子をもうけていたのに対し、外戚でない基経が示威行動を見せたのだともいわれている。
このとき道真は讃岐の国司の長官(守)だったが、急ぎ帰京して学問的な(紀伝道の)立場から橘広相をかばい、基経を諫める意見書「奉昭宣公書」を提出した。理路整然としたその主張に、ついに基経も矛を収めざるを得なくなったといわれている。
阿衡の紛議は、基経が娘を宇多天皇に輿入れさせることで落着し、広相も処罰されずにすんだ。
宇多天皇の狙い
ただ、近年は「宇多天皇が親政を目指したとは考えず、藤原基経と深刻な対立はなかった」(滝川幸司著『菅原道真学者政治家の栄光と没落』中公新書)という説が出てきている。また、道真の意見書が提出される前に、広相は許され、事件はすでに解決していたという説もある。ただし、この事件を機に宇多天皇が道真を厚く信頼するようになったのは間違いないだろう。
なお、繰り返しになるが、阿衡の紛議のとき、道真は都におらず、讃岐の国司として現地に赴任していた。この任官について、道真は左遷されたと認識しており、盛んに望郷の念を綴った漢詩をつくっている。
ただし、現地では善政をおこなったようだ。左遷された悲劇のヒーロー阿衡の紛議後の寛平3年(891)、中央に返り咲いた道真は、蔵人頭に就任、式部少輔(式部省のナンバー・スリー)に再任され、さらに翌月、左中弁(太政官の事務官僚)を兼ねた。
さらに2年後には参議になった。すでに藤原基経は寛平3(891)年に没し、後継者の時平はまだ21歳だった。だから宇多天皇は、道真を藤原一族をおさえる対抗馬にしようとしたのだろう。こうして890年代になると、道真が宇多天皇の支持を得て政治を主導するようになる。