来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部はどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「教養ある人物だったが、悲観的で他人からの評判ばかり気にする繊細なタイプだった。それゆえ、真逆の性格の清少納言に対し複雑な感情を抱いていた」という――。(第3回)

※本稿は、河合敦『平安の文豪』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

京都の宇治にある紫式部像
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日記からわかる紫式部の意外な性格

周知のように紫式部という名は本名ではない。紫式部の「紫」は、『源氏物語』に登場する「紫の上」からきているようだ。「式部」というのは、父の為時が式部省の役人「式部丞」だったので、その官職(役職)名からとられたものだ。

さて、ここでたびたび登場している『紫式部日記』に触れておこう。紫式部は、寛弘5年(1008)秋から寛弘7年(1010)正月までのことを回顧録の形にまとめている。これがいわゆる『紫式部日記』だ。ただ、その内容は、本人の備忘録や儀式の手順といったことを記した男性貴族の日記とは異なり、女房として仕えた彰子が長男を出産したさいのことが詳しく書かれている。

そういった性格から、おそらく藤原道長が公的な記録を残すよう紫式部に要請したのではないかと考えられている。しかし、単なる記録ではなく、紫式部独特の観察眼や心情なども書かれている。さらに不思議なのは、彰子の長男の誕生録の間に、紫式部が誰かに宛てた消息文(手紙)が挿入されたり、年次不明の雑録が入り込んだりしている点である。

とくに消息文のほうは、親しい知人に宛てたものだとか、娘の賢子に書いたものだなど、諸説ある。賢子が同じく彰子の女房として宮仕えをしているので、愛娘のために宮中の様子をこまごま教えてやった手紙ではないかと、私は考えている。

皇后の出産における紫式部の働き

賢子は紫式部に似て大変な才女であり、後世、三十六歌仙の一人に選ばれている。親仁親王(彰子の妹・嬉子の子でのちの後冷泉天皇)の乳母となり、親仁親王が即位すると従三位の位階を与えられた。

ともあれ、この『紫式部日記』があるお陰で、私たちはこの女性が『源氏物語』の作者であることを知ることができるのである。もう少しいえば、それがわかる記述が出てくるのだ。

紫式部が宮仕えを始めて2、3年後、彰子は一条天皇の子を出産した。入内から9年後のことであった。入内したのは彰子が12歳のときだったから、数年間は子ができなくて当然だったが、その後20歳過ぎまで子に恵まれなかったのは、一条天皇が亡き皇后・定子を忘れることができず、他の女性を愛せなくなっていたからだという説がある。

事実、定子が次女を産んですぐに亡くなってしまってから、彰子以外の3人の女御との間にも、一条天皇は子をもうけていない。道長は娘の彰子が子宝に恵まれるよう、寛弘4年(1007)に金峯山に参詣している。その甲斐あって翌年、彰子は念願の男児(敦成親王)を出産したのだ。

彰子は実家(土御門第)で出産したが、紫式部ら女房たちも里帰りに同行した。いよいよお産が近づくと、安産のためにさまざまな読経や加持祈禱きとうなどがおこなわれたが、大声でそうした儀式などへの指示を出していたのは道長自身だった。