罪の回数で文字が変化する入墨刑

最後によく時代劇に登場する入墨刑について紹介しよう。これは、窃盗犯に科される属刑にあたる。

江戸の場合、伝馬町牢屋敷の牢屋見廻り詰め所近くの砂利の上にむしろが敷かれ、そこに犯罪者が引きすえられ、検使役として鍵役が詰め所縁側に着座し、本人の名前、年齢、入牢日などを確認したうえで、刑が執行される。

河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)
河合敦『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』(朝日新書)

まずは対象者の左肌を脱がせ、そこに墨で文様を描き、その箇所に針を刺して皮膚を突き破り、墨を刷り込んで水洗いして墨が入ったかを確かめる。不十分な箇所には再び針を刺し、入墨を完成させる。最後は牢屋敷の責任者・石出帯刀が確認、その後再度、入墨の箇所に黒々と墨を塗り、紙でまいて紙ヒモでしっかり結び、完全に乾いたところで本人を呼び出し、最終チェックをおこなった。

江戸の入墨刑は左腕の肘関節の下に二本線を入れた。大坂は肘より上に施した。

佐渡では「サ」という文字を入れたが、腕ではなく額に入れる地域もあった。たとえば御三家の紀州藩では、なんと額に「悪」という字を刻んだ。広島藩では、初犯だと額に「一」と入れ、再犯すると「ノ」を足して「ナ」という形にし、三度目は「犬」という字にする。つまり、犬畜生にも劣るという意味だ。

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