連載#私の失敗談 第7回】どんな人にも失敗はある。元厚生労働事務次官の村木厚子さんは「障害者自立支援法の成立をめぐっては、当事者団体から猛烈な反対を受け、ある問いを投げかけそうになった。しかし、いま振り返ると、当時の自分の未熟さにゾッとする」という――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山田清機)
「3つの失敗談」を語ってくれた村木厚子さん
撮影=今村拓馬
「3つの失敗談」を語ってくれた村木厚子さん

「入省した当時は、本当にデキが悪かったんです」

公務員って、どこか能面みたいなイメージがありますよね。感情を外に表さない、絶対に失敗をしない……。

私、昨年まで日本社会事業大学の専門職大学院で、社会人を相手に最新の社会保障についての講座を持っていました。私が総論を担当し、生活保護、医療、介護、年金、子どもといった個別のテーマについては、まさに役所でそれぞれを担当している公務員の方々に講師として来ていただいたのですが、政策を立案する時どんな思いだったのか、どんな苦労があったのかを話してほしいとお願いしたのです。そうしたら、これが受講生の方にとても好評だったんですね。公務員にも血が通っていたんだなって(笑)。

というわけで、私にも失敗は山のようにあります。最終的に事務次官というポストに就いたので、さぞ優秀だったのだろうと思われがちですが、そんなことはまったくありません。1978年に労働省に入省した当時は、本当にデキが悪かったんです。

深夜0時を過ぎて気づいた「国会答弁書」のミス

入省して最初の忘れがたき失敗は、職業安定局に配属されて間もなくのことでした。職業安定局はいまで言うハローワークと雇用政策を統括している部署でした。当時は第2次オイルショックの直後で、世の中は大変な不景気で雇用政策が大変な時期でした。私の部署は「雇用国会」と呼ばれた国会に向けて、山のような作業を、毎晩、毎晩、深夜までこなしていたのです。

いまとなっては信じられないことですが、当時はパソコンどころかワープロすらなく、基本は手書きです。入省間もない私の役割は、上司が手書きにした大臣の国会答弁書などをひたすら清書することでした。

ある晩、私はご高齢の大臣のために、国会答弁書を升目の大きな縦書きの罫紙にサインペンで清書する仕事をしていました。すると、答弁書の中に「経済社会70年計画」という言葉が出てきたのです。私は「70年計画なんて、ずいぶん長いなー」などと思いながら清書を続けました。

清書が終わるとコピー担当の人がコピーを取って、当時のコピー機にはソーターなんてついていませんから、人海戦術でソーティング(ページ順に並べてホチキスで閉じること)です。大臣答弁書は何十部も必要なのでこの作業を職員総出で延々とやるのです。時計はとっくに深夜0時を回っています。

出来上がった答弁書の山が隣の部屋にいくつも積まれていき、もう少しで作業が終わろうというとき、私はふっと気づいたのです。そういえば、ニュースで経済社会7カ年計画って言ってたような気がするけど……。あっ、あれだ。どうしよう!