豊臣秀吉が建てた大坂城はどんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「5重、地上6階地下2階の天守は、外壁から内部に至るまでふんだんに金を使用していた。史上最も豪華な城であったことは間違いない」という――。
「大坂夏の陣図屏風」右隻(部分・通称:黒田屏風、大阪城天守閣所蔵、重要文化財)
「大坂夏の陣図屏風」右隻(部分・通称:黒田屏風、大阪城天守閣所蔵、重要文化財)(写真=National Geographic/PD-Japan/Wikimedia Commons

なぜ秀吉は豪華絢爛な大坂城を建てたのか

羽柴秀吉(ムロツヨシ)は賤ケ岳の戦いで柴田勝家(吉原光夫)を破り、勝家が籠る北ノ庄城(福井県福井市)を取り囲んだ。その際、弟の秀長(佐藤隆太)に向かって、勝家に嫁いだ織田信長(岡田准一)の実妹、市(北川景子)のことを「わが妻」といい、救い出すように命じて、こうつぶやいた。

「ほしいのお、織田家の血筋。そうすりゃわしら、卑しい出だっちゅうてバカにするもんはおらんくなる」

NHK大河ドラマ「どうする家康」の第30回「新たなる覇者」(8月6日放送)での場面である。以後、天下人への階段を急速に駆け上がっていく秀吉だが、事実、「卑しい出」であることはかなり気にしていたようで、それを糊塗する方途を考え、手を打ち続けた。

一般に秀吉は農民出身であるとか、足軽の出であるとかいわれているが、じつは、それさえわかっていない。いずれにせよ、当時、武士などの支配層から見れば「卑しい」と受け取られる階層の出身であったことはまちがいない。

同じ第30回の予告編には、建築中の大坂城天守が映し出されたが、勝家を滅ぼした天正11年(1583)から築きはじめた大坂城もまた、秀吉が「卑しい出」であることを覆い隠すための装置のひとつだった。

「信長は自分より劣った者」というメッセージ

秀吉が「卑しい出」だというイメージを塗りつぶすためにも大坂城で実現させたのは、とてつもない規模と、常軌を逸した絢爛けんらん豪華さだった。以下、秀吉と直接の交流があり、大坂城を訪問したこともあるイエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの著作『日本史』(松田毅一・川崎桃太訳)から、何カ所か引用する。

「彼はいっそう身分を高め、不朽の名声を得、統治ならびに地位において、万事、信長を己れより劣れる者たらしめようと決意した。その傍若無人にして傲慢なことのあらわれとして、信長が六年間包囲した大坂(石山)の地に、別の宮殿と城郭、ならびに市街地の建設を開始した。それらは、その地が目的に適合していたために、建築の華麗さと壮大さにおいては安土山の城郭と宮殿を凌駕した」

秀吉が大坂城を、信長の安土城よりも大規模で豪華なものにすることで、自身の権威を高めようとした、というのは研究者の一致した見解である。それは、ねらっただけでなく実現された。