現代に残る唯一の遺構
外観も、内装も、調度も、蔵されているものも、秀吉の「卑しい出」を徹底的に覆い隠すがごとく、金ピカだったのがよくわかる。だが、空前絶後の輝きを誇った豊臣大坂城は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で灰燼と帰し、天守も焼失。その後、豊臣の痕跡を消したい徳川幕府の手で1~10メートルもの土を盛られ、地上から消されたうえで徳川の大坂城が築かれた。
だが、たったひとつ、その遺構が残っている。
先に挙げた「大坂城図屏風」には天守の左手に、唐破風の入口がある屋根つきの橋が描かれている。これはフロイスも『1596年度日本年報補遺』で、金や宝石が散りばめられ極彩色ですばらしい輝きを放つ、と描写した極楽橋である。この橋は慶長3年(1598)に秀吉が死去すると、2年後に霊廟である豊国廟に移築され(『義演准皇后日記』)、さらにその2年後、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島に再移築された(『舜旧記』)と記録されている。
国宝に指定されている竹生島の宝厳寺唐門、およびそれに連なる重要文化財の観音堂と渡廊、国宝の都久夫須麻神社本殿が、その極楽橋だとされ、令和2年(2020)までの修理と調査によって、あらためて大坂城から移築されたことが間違いないと検証された。
海よりも深いコンプレックス
滋賀県がこの修理を行った際、レーザー測定で顔料や模様を精密に分析。それにもとづいて、木部を覆う黒漆が全面的に塗り直され、さらに、彩色や彫刻の欠損も補ったうえで往時の色彩が忠実に再現された。現在、黒地に金のほか赤や青をもちいた絢爛たる装飾がよみがえって、圧巻である。
これを見るだけでも大坂城の常軌を逸した豪華さと、秀吉の海より深そうなコンプレックスに思いをいたすことができる。