織田家の一家臣にすぎなかった羽柴秀吉は、なぜ台頭できたのか。戦国史研究家の和田裕弘さんは「賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討ったことが大きい。当時の記録で、秀吉は勝家について『主たる強敵と見てこれを大いに恐れていた』と評している。秀吉にとって賤ヶ岳の戦いこそが、『天下分け目の戦い』であった」という――。

※本稿は、和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)の一部を再編集したものです。

豊臣秀吉画像(写真=名古屋市秀吉清正記念館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
豊臣秀吉画像(写真=名古屋市秀吉清正記念館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

柴田勝家は家中の不和を制しきれなかった

清須会議で長浜城を得た勝家は、丸岡城主で養子の勝豊に長浜城を任せた。秀吉との決戦を想定していたのなら別の選択肢もあったはずだが、よりにもよって勝家は養子勝豊に裏切られてしまう。勝豊は、佐久間盛政が養子の自分を差し置いて勝家に重用されていることを妬み、後継者の地位も実子の権六にすげ替えられた気配があり、勝家から心が離れていたと思しい。

フロイスの書簡によると、勝家に対して「不満を抱いていたので反旗を翻し」たという。また、すでに死病に侵されていたことも大きいだろう。勝家の一族では勝豊だけでなく、柴田勝定も本能寺の変以前に勝家から明智光秀に転仕しており、家中の不和を制しきれなかったのも勝家敗北の遠因の一つかもしれない。

離反した勝家の養子は、秀吉に手厚く保護された

勝豊は勝家から離反しただけでなく、秀吉方として勝家に敵対したと見られている。勝家に見放されていたと感じていたのかもしれないが、寝返った秀吉側には大いに利用価値があり、手厚く保護された。秀吉は天正11年(1583)3月21日付で当代の名医曲直瀬玄朔まなせげんさくに対し、大病を患っている勝豊が上洛するので養父の正盛も含めた医師たちで治療に専念するよう申し付けている。

同日付で本法寺に対しても勝豊が在京中の宿にするので馳走(もてなし)するように指示している。勝家は長浜城を佐久間盛政に与えるつもりだったが、秀吉が古くからの親友である勝豊に与えるように希望したという説もある。死を悟った勝豊は秀吉に越前を平定してほしいと遺言し、秀吉は涙をこらえてその死を惜しんだという。しかし、こうした記述はどこまで信用できるか心許ない。

勝豊の裏切りは時系列で見ていく必要がある。天正10年(1582)12月、長浜城の勝豊は秀吉に人質を差し出して降伏したが、援軍を派遣できない勝家も了承してのことである。この時点での病勢は不明だが、勝家の書状によると、いったん回復した気配もある。(天正11年)閏1月29日付の勝豊宛の書状である。不明な部分もあるが、要約すると次のような内容である。