織田家筆頭と言われる重臣ながら主君亡き後、豊臣秀吉に敗れた柴田勝家。戦国史研究家の和田裕弘さんは「秀吉にとって最大の敵は明智光秀でも徳川家康でもなく、織田家の総司令官・勝家だった。勝家は最期に臨んで清々しい振る舞いを見せ、宣教師のフロイスは『信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人が滅び灰に帰した』と書き残している」という――。

※本稿は、和田裕弘『柴田勝家』(中公新書)の一部を再編集したものです。

賤ヶ岳の戦いで秀吉に完敗し、勝家一行は北庄城へ敗走

賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、北庄城めざして敗走した。おそらく北庄城で再起を図ろうとは思っていなかっただろう。10年前に朝倉軍を追撃したことが脳裏によぎったのではなかったか。前回は勝者側だったが、今度は敗者側である。もはや再起は望めないことは賢明な勝家には重々分かっていたと思われる。朝倉義景の最期を知っているだけに、北庄城で華々しい最後の一戦を飾って幕を下ろすつもりだっただろう。秀吉の書状には勝家は4、5騎で敗走したとあるが、『豊臣記』には近習百余騎を率いて北庄城に馳せ帰ったとあり、これくらいが妥当なところである。

『秀吉事記』などによると、秀吉は合戦翌日、府中に陣を進め、前田利家、徳山秀現、不破河内守らは降伏。本来であれば、攻め殺すべきだが、勝家を討ち果たすことを優先し、赦免したという。秀吉軍と多少の攻防があったとする史料もあり、翌日に和睦したというのもある。

歌川芳藤作「織田信長公清洲城修繕御覧之図」(部分)
歌川芳藤作「織田信長公清洲城修繕御覧之図」(部分)[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

勝家と組んでいた前田利家は秀吉に降伏し敵側に回る

利家は秀吉軍の攻撃を覚悟していたが、旧知の堀秀政が使者となったこともあり、北庄城攻めの先鋒をすることで降伏が認められた。当初、勝家にも人質の息女を出しており、勝家を裏切ることはできないと拒否したが、人質が脱出(勝家が解放)したという報を得て降伏したとも、勝家と秀吉の間を取り持とうという算段もあり、先鋒を引き受けたとする史料もある。

秀吉軍は、天正11年(1583)4月23日には北庄城に攻め寄せた。北庄城は、勝家が長年かかって築城した城郭であり、留守部隊として三千余人を配置しており、これに敗残兵が加われば敵が勢いを盛り返す恐れがあるため、秀吉は総攻撃を命じ、天守の土居まで攻め寄せた。秀吉昵近の古老衆は勝家の助命を評議したが、勝家を恐れる秀吉は却下し、力攻めを続けた。