わずか半年前に勝家と再婚したお市は運命を共にすることに

しずたけ』には、秀吉は北庄城を見下ろすことのできる愛宕山へ布陣して城内を遠望し、老人や女性しかいないなか、旗指物で城を飾り立てるなどの差配を見て、近習の者どもに「武将はかくぞたしなむべきものなり」と勝家を褒めたという。勝家はすでに諦観しており、天守に入り、股肱ここうの家臣80余人を集め、最後の酒宴を開き、信長から拝領した天下の名物の道具類を広間から書院に飾り立てた。お市に対しては、信長の妹であり、縁戚も多く、秀吉も丁重に扱ってくれるので落ち延びるように諭した。しかし、お市はそれを拒絶し、ともに自害することを希望した。

自害の前夜に詠んだ辞世の句(読みやすく修正した)は、次のように伝わる。

小谷御方(お市)
 さらぬだにうちぬる程も夏の夜の 夢路をさそふ郭公ほととぎすかな

返し(勝家の返歌)
 夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲居に上げよ山郭公

勝家は福井市にあった北庄城に籠城し、秀吉軍に囲まれる

翌4月24日の午前4時頃、秀吉は、天守に籠る勝家を総攻撃する。『豊臣記』には天守は安土城をしのぐ九重であったとし、「石の柱、鉄の扉」の堅牢さを備えていたと記す。天守周辺には多数の楼閣が立ち並び、廊下で連結させ、天守には精兵300余人が籠城し、弓・鉄炮、長道具(鑓など)をもって大軍の秀吉軍を待ち受けた。

大軍での攻撃が難しいと判断した秀吉は、六具(6種で一揃いの武具)を装備した勇士数百人を選抜し、手鑓と打物(刀剣)だけを携えて天守の内部へ突撃させた。最期を悟った勝家は天守の九重目に登り、秀吉軍に向かって「勝家、唯今腹を切るの条、敵中にも心ある侍は、前後を鎮め見物し、名を九夷八蛮までは相伝うべき由、高声に名乗」った。

4月26日付の秀吉の書状によると、「天守へ取上、妻子以下刺殺、切腹、廿四日たつの​下こく相果候」とある。勝家は天守で妻子らを刺殺し、自らは24日午前9時頃に切腹して果てたということになる。

喜多川歌麿画、柴田修理進勝家と小谷の方(お市)、1803-1804(写真=大英博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
喜多川歌麿画、柴田修理進勝家と小谷の方(お市)、1803-1804(写真=大英博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉の書状は、時期や相手によって矛盾したことも記している。最も詳しいものの一つが、合戦後ひと月近く経過した5月15日付小早川隆景宛書状である。誇張もあると思うが、当時の雰囲気が出ているので紹介しよう。