金で埋め尽くされた空前絶後の豪華さ

絵画史料で大坂城の豪華さを検証するとどうなるか。大坂城を描いた最古の絵画「大坂城図屏風」(大阪城天守閣所蔵)には五重の天守が描かれている。その印象はわれわれが見慣れている、白い漆喰で塗りごめられた天守や、壁面に下見板が張られた天守とは、印象がかなり違う。相当にデコラティブで、外観からして「金ピカ」なのである。

下から四重目までの外壁は、軒の下に漆喰が塗られ、その下部には黒い地色の腰板が張られている。黒漆が塗られているのだろう。だが、黒地のうえは秀吉が朝廷から使用を許可された桐紋と菊紋をはじめとする、金色の模様で埋め尽くされている。おそらく大きな木彫に金箔をほどこし、腰板のうえに張り詰めたのだろう。

また、5階すなわち最上重には、フロイスが「外から取り囲む回廊」と記した廻縁がめぐらされ、その廻縁も壁面も金色に見える。ほかにも破風飾り、軒丸瓦や軒平瓦など、いたるところが黄金色に輝いている。

大阪市内で出土した金箔押瓦(写真=Saigen Jiro/PD/Wikimedia Commons)
大阪市内で出土した金箔押瓦(写真=Saigen Jiro/PD/Wikimedia Commons

規模だけなら、のちに家康をはじめ徳川将軍が、名古屋城や徳川大坂城、江戸城などにより大きな天守を建てたが、常軌を逸した豪華絢爛さにおいては、秀吉の大坂城天守は空前絶後だった。

黄金の寝台に黄金の茶室

では、内部はどんな感じだったのか。フロイスは天正14年(1586)にイエズス会の日本地区准管区長だったガスパール・コエリョに伴って、大坂城を訪れた。まず、通された御殿について、

「周囲には美しい虎皮やシナから齎された鞣皮、その他の立派な品々が秩序整然とつり下げられていて壮麗であった。(中略)樹木や鳥が黄金をもって描かれており、関白は奥の上座に坐し、絶大な威厳と貫録を示した」

と記す。そして、謁見えっけんののちにフロイスら一行は天守に案内される。

「関白はその身分とは別に一私人のようにして司祭たちの案内役を務めた。(中略)そして途中は閉ざされていた戸や窓を自分の手で開いて行った。このようにして我らを第八階まで伴った。その途中の各階で、彼はそこに蔵されている財宝についてこう語った。『貴殿らが今見ているこの室には金が充満している。別の部屋には銀、ここには絹糸、ダマスコ織、あの部屋には茶の湯の器が、彼方の室には大小の刀剣や立派な武具が充満している』と」

復元され、一般公開が始まった豊臣秀吉の「黄金の茶室」=2022年3月27日、佐賀県唐津市の県立名護屋城博物館
写真=時事通信フォト
肥前名古屋城にもあったとされる「黄金の茶室」。復元され、一般公開が始まった=2022年3月27日、佐賀県唐津市の県立名護屋城博物館

「ある一室を通ると、そこには十着ないし十二着の新しい紅色のヨーロッパ風の外套が紐で吊るしてあった。それらは日本ではきわめて稀で、当国の産ではないために重宝がられているのである。さらに関白は錠がかかった非常に長い多数の大函を開いて我らに見せたが、それを見た我らは互いに顔を見合わせて文句なしに驚嘆した。我らが目撃したものは予期し想像していたことを凌駕していたからである。日本には折畳み寝台もふつうの寝台もなく、それらに寝る習慣もないにかかわらず、二、三台の組立寝台が見られた。それらは金糸で縫い付けられており、ヨーロッパでは高価な寝台にのみ使用される他のあらゆる立派な装飾が施されていた」

「また彼は、ことごとく黄金で造られた一室がある場所を我らに見せた。その黄金の室は、解体して多くの長い大函に入れれば移動できるようになっている。関白はそこでこの部屋は昨日組み立てたばかりで、まだ解体していなければ、貴殿らに折よく見せられてはなはだ好都合だったのだがと言った」