遺骨収集体験を伝える記事を連載することに

三浦さん宅は、僕の職場兼住居だった恵庭支局から徒歩5分の住宅地にあった。何度、話を聞きに行ったことか。何度、遺骨収集の写真を見に行ったことか。三浦さんは背が高くてがっちりした体格のお年寄りだった。筋肉質なのは、父亡き後の家族を支えるためにがむしゃらに働いたためだと思われる。「おかげでこの歳になっても遺骨収集に行けるんですよ」。

いつも明るい声。いつも笑顔だった印象だ。電話での第一声は決まって「さかいさーん」と弾んだ声。僕は今でも硫黄島に関する何かをしているとき、その声を思い出す。生前、そうだったように、今も変わらず三浦さんと二人三脚で硫黄島のことに取り組んでいる気持ちでいる。

地域紙の記者は全国的、あるいは世界的な世相を地域社会に反映させて報道するのが職務だ。映画の公開で硫黄島への社会的関心が高まったことを受け、僕は三浦さんの遺骨収集体験を伝える記事を連載しようと考えた。初めて会った時点ですでに15回、遺骨収集団に参加していた三浦さんの話は壮絶だった。

硫黄島の地下壕で土を掘る戦没者遺児の三浦さん
硫黄島の地下壕で土を掘る戦没者遺児の三浦さん(2020年11月。日本戦没者遺骨収集推進協会提供)

骨片の一つひとつを集める高齢の遺児たち

「ある壕に入ると、壁面に骨片がびっしり刺さっていた。砲爆撃を浴びたのか、手榴弾で自決したのか。そんな壕は一つや二つではなかった……」。

国の命令で絶望の戦場に送られ、体が四散どころか粉々になったまま放置された兵士は大変不憫だが、それを自分の父と重ねて骨片の一つひとつを壁面から抜いて集める高齢の遺児たちもまた不憫だと思った。

三浦さんの遺骨収集体験を綴った連載「矢弾尽き果て 悲劇の島・硫黄島」の反響は、それまでの記者人生で最大だった。映画が描いたのは日米の激戦であり、散った兵士の遺児の戦後は伝えられなかったことも大きな要因になったと思う。硫黄島のその後について知りたがっている人たちは、確かに存在している。そんな思いを強くした。

僕が硫黄島報道に執念を燃やす理由。その一つは、僕が遺児だからだ。もちろん、戦没者遺児ではない。僕の父は、僕が10歳のときに勤務中に突然死した。別れの挨拶もできぬまま死別した悲しみは、46歳になった今でも癒えない。だからこそ突然、家族を失った人に対して、強烈なシンパシーを僕は抱く。