最期の言葉は「父島ノ皆サン サヨウナラ」
その思いが決定的になる本と僕は出会う。硫黄島守備隊の元参謀、堀江芳孝氏が記した『硫黄島 激闘の記録』(恒文社)だ。堀江氏は米軍が硫黄島に上陸した際、父島に渡っていたため、玉砕を免れて生還した人物だった。僕の祖父もいた父島側の視点から硫黄島戦を記していることが興味深かった。
硫黄島は本土から1200キロ離れているため、通信隊が本土に電報する際は、父島の通信隊に中継してもらっていた。約280キロ離れた両島の通信隊員はお互いの顔が見えないながらも、連日連夜の交信任務によって結ばれた強い絆があった。
硫黄島発の最後の電報としては、全滅覚悟で最後の総攻撃に出ることを伝えた栗林忠道中将の「訣別電報」が広く知られている。「国ノ為重キ努ヲ果シ得デ 矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」という内容だ。
しかし『激闘の記録』によると、最後の電報の言葉はこんな内容だったという。
「父島ノ皆サン サヨウナラ」
もっと生きたいのに生きられなかった人の言葉だと、僕は感じた。勇ましい響きもある「散ルゾ悲シキ」よりも、よっぽど悲しき電報だと思った。妻子ある庶民が全国各地から集められた硫黄島守備隊らしい、最期の言葉だとも思った。
収集団に加わるために転職までし、ついに上陸
この電報を頭の中で反芻するうちに、僕はこう思うようになった。
「自分はこの電報が送られた父島側にいた兵士の孫だ。今なお硫黄島側に残されたままの戦没者は、いわば祖父の仲間たちだ。硫黄島の戦禍の社会的記憶の風化に抗う記者になろう。そして僕自身も遺骨収集団にボランティアとして加わり硫黄島の土を掘ろう。天国の祖父も、お父さんも喜んでくれるはずだ」
収集団参加が実現するまで13年の年月を要した。実現のために、転職もした。一度は志を断念しかけたこともあった。
ともあれ、2019年9月25日午後1時17分。父島兵士の孫を乗せた自衛隊輸送機C130は、硫黄島の滑走路に着陸した。
機体の扉が開くと、南国特有の湿気を含んだ温い空気が入ってきた。秋の乾いた本土の空気とはあまりにも違う。客室乗務員役の男性隊員に促され、僕が降りる順番が回ってきた。
これから踏むことになる滑走路の下には、遺骨が多数眠っているとされている。降り立とうとした僕は、足を1回、引っ込めた。どのように最初の一歩を踏み出せばいいのか、戸惑ったからだ。そのとき、思い出したのは最後の電報だった。そして僕は心の中で“返電”しながら、上陸することにした。
「硫黄島ノ皆サン コンニチハ 父島ノ兵士ノ孫ガ 迎エニ来マシタヨ サア一緒ニ本土ニ帰リマショウ」