「私は今、どこにいるだえ?」

しかし、2016年になると、母親はますます1人で過ごせる時間が短くなっていく。

11月のある日、山田さん(61歳)が衣料品店の仕事をしていると、突然母親から電話がかかってきた。びっくりして出ると、「私は今、どこにいるだえ? ここにいていいだかえ?」と焦った様子でたずねる。山田さんが落ち着かせながらどこにいるのか確認すると、母親自身の家だった。

山田さんが仕事でいない日中や、デイサービスも訪問介護もないとき、しばしば自分がどこにいるのかわからなくなった母親から電話がかかってくるようになると、山田さんが仕事に集中できなくなるだけでなく、母親の徘徊はいかいの危険性も高まってきた。

そこで、ショートステイを利用することにした。

12月。母親自身は行くことを渋ったが、山田さんはなだめたりすかしたりしながら何とか初めてのショートステイに行かせた。その日は山田さんの妻も実家に来ていて、山田さんと2人でショートステイ帰りの母親を迎えた。

「どうだった? 気に入ってくれた?」
「嫌なところとは思わなかった?」

山田さんと妻は、すがるような気持ちで母親に問いかける。すると母親はぽつりぽつり言った。

「食事はまずくて、夜は脚が寒くて、夜中に館内を歩いた……。帰る日はレクリエーションをして楽しかった……。何より、息子夫婦が、『泊まってくれて、とても助かった』と、言うなら、それが一番良かった……。だから、また泊まりに行く……」

それを聞いた山田さん夫婦は、胸をなでおろした。しかし山田さんは、自分に保険をかける意味で、「明日になったら、わからないよ」と妻に言った。

在宅介護の限界

そんな翌日。その日は山田さん(当時62歳)だけでデイサービス帰りの母親を迎えた。母親は帰宅するなり、どうも機嫌が良くない。「どうした?」と聞いてみると、母親はまた、ぽつりぽつりと話し始めた。どうやら、昨日のショートステイに対する不満が母親を不機嫌にさせているようだ。

「泊まりには行きたくない……」

そう言って下を向く母親。

「昨日は私の妻の前ということもあって、本音が言えず、私たちの雰囲気に合わせたのでしょう。私の母の介護は、食事や排泄の介助というより、見守りや補助をするものでしたが、母はまだ自分で歩けたので、徘徊の可能性が高く、目が離せないのが大変でした。だんだん母にかかりきりになり、仕事ができなくなって、収入が減ってくると、私はジワジワと経済的な不安も増してきていました」

衣料品の店は、山田さんがほぼ1人で切り盛りしていたため、母親につきっきりでいれば店を開けられない。藁にもすがる思いで利用したショートステイだったが、あるとき「行きたくない」と言われ、山田さんは目の前が真っ暗になってしまった。

次の瞬間、山田さんはキッチンに包丁を取りに行き、母親が座る目の前の畳に思い切り突き刺した。

「自分は親の介護なんかしたことがねえくせに!」
「2人で死んだ方がいいんだよ、それしかねえんだよ‼」

畳
写真=iStock.com/35007
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母親を罵る言葉がとめどなく口から溢れ出た。しかし母親は、「お前……何てことするだえ?」と言ったきり、冷めた目で山田さんを見ていた。

「内心、自分で自分がバカみたいだと思っていました。ただのパフォーマンスでしたね。62歳のいい大人が何をしているのかと、恥ずかしくなってしまいました。介護は大変でしたが、思い返してみれば、面白いネタの宝庫で、母と夜な夜なデカイ口を開けて大笑いをしたものでした。入れ歯を外した母の顔は、別居していてはきっと見られなかったと思います。私が大笑いすると、母もその口を開けて大笑いするので、それを見た私はさらに、腸が捻じれてしまったのではないかと思うほど笑い転げました。しかし、そんな日々の中でも、やはり介護は楽なものではなく、心身ともに疲れた私は母に声を荒らげ、最後には手を上げたり、包丁を畳に突き刺して脅したりと、2016年は精神的に相当不安定になっておりました」