他人にほめてもらうために読解を深めるわけではない
披露することで他人を驚かせる知識量やマニアックな蘊蓄と違って、「慣れの深み」を味わっていることは他人には伝わりにくいものです。他人に認めてもらい評価されるための読書ではなく、またそのときどきに束の間を忘れるために楽しむ読書でもなく、誰かがわざわざ読みにくさを障壁にして書いた言葉を自分なりに受け止めてきたという積み重ね。それを誰かにわかってもらうためには、わざわざ読み取りにくく書かれていたものを台無しにするリスクをおかして、読みとりにくさも含めて開陳する必要があります。
しかもそのときには、相手が「語るべき人々」の資格を得ていることが条件になります。「わからないひとにはわからない」という当たり前の事実と、「話せばわかる」という希望とが衝突するのです。
より遅くより深く再読すると人生のパズルが解けていく
速く読むことも多く読むことも無意味ではありませんし、知識や蘊蓄を蒐集することにも意味がないわけではありません。しかし、より遅く読み、より深く読むこともまた大切なことなのです。知識は読書以外にももちろん役に立ちますが、ある種のパズルを解くヒントになったり、その知識を前提とした書物を読み解くのに必要になったり、自分とは異なった信念や考え方を持っているひとの言葉を噛み締めるために不可欠なものでもあるのです。
より速く、より多く読む「わかりやすい」読書は初読の機会を増やします。これに対して、より遅く、より深い読書は再読によって可能になるものです。まず読書に慣れ、つぎに再読に慣れることで、読み飛ばしたり読み捨てたりしてきた本からはより豊かな読書を得られるようになります。そして再読への慣れには、際限のない深みがあるのです。