かのプラトンが言った「語りかけるべき人々」とは?

読んでも読んでもそういった「残りの部分がある」と思わせてくれる本があります。汲めども尽きない泉のような、何度でも読める本は「古典」と呼ばれます。ひとは学びを得るためだけに読書をするわけではありませんが、たとえば読み返すたびに異なった教訓を与えてくれる本というのは確かに存在しているのです。

西洋哲学の祖プラトンが「語るべき人々に語り、黙すべき人々には口をつぐむ」言葉として指し示したかったのは、読者が「語るべき人々」になったときにその内容を「語り」、読者がまだ「黙すべき人々」でしかないときには「口をつぐむ」、そんな言葉のことなのかもしれません。

プラトン像
写真=iStock.com/thegreekphotoholic
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読者が「語るべき人々」であるタイミングになれば、そこに読まれる言葉は読者の心に刻み込まれるかもしれません。その記述が読者を「語るべき人々」として認める資格として、プラトンは「知恵」を要求します。

これは単なるバラバラの知識ではなく、読者に何かの資格を与えるような体系や経験を含むものです。プラトンの言う「魂」には独自の文脈がありますが、そのような知識と経験の体系をもち、しかるべき資格を得たときに言葉が書き込まれるもののことだ、とひとまずは言えるのかもしれません。

既読スルーした表現から再読時に感銘を受けることも

書かれた文章は、誰にでも読むことができます。ただしそこで使われている文字を読む知識や、そこで書かれていることを想像するための経験は必要になります。例えばマルグリット・デュラスの小説『アガタ』の「打ちひしがれたような優しさ」という文字列を見て「打ちひしがれる」という言葉の意味がわからないひとは「誰にでも読める」はずの文章を読むことができません。

永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)
永田希『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)

そして言葉の定義を知り、その意味をわかったつもりになっていても、「打ちひしがれたような優しさ」の意味はすぐにはわかりません。誰にでも朗らかに優しさを振りまく幸福なひとには、あるいは逆に、誰にも優しくできないようなひとにも、なかなかわからない文章なのです。

それでも初読時に「打ちひしがれたような優しさ」の理解の困難さを無視して読み進めることはできます。少し時間をおいて、もしまた『アガタ』を読み返すことがあったとして、時間をおいているあいだに経験したことや知識を得ることによって、「打ちひしがれたような優しさ」に感銘を受けるようになるかもしれません。

本を手にとる億劫さ、読み始める億劫さに躊躇することに慣れ、また読解困難な記述に慣れて、初めてこの感銘を味わうことができます。