「責任は取るからやりたいようにやってくれ」

このようなエピソードだけを見ると金権政治家に見えるが、田中は単に金をばらまいて人の心をつかんだわけではない。官僚には「自分は素人だから任せる、やりたいようにやってくれ。責任はこちらで取る」という態度で常に接したという。保身が目立つ日本の政・官の世界において、田中のやり方に多くの政治家や官僚がシビれたのは想像に難くない。

しかし、昭和49年に「田中金脈」と呼ばれる資金調達があばかれると、批判が集まって、総理大臣の辞任を余儀なくされた。さらに2年後にはロッキード事件(アメリカのロッキード・エアクラフト社が新型航空機売り込みのために政界に賄賂を送った事件)が発覚し、田中も逮捕され、自民党を離れることになった。

裁判中も権力を振るったが、クーデターに遭う

むろん、これで田中が政界から姿を消したわけではない。彼は自民党最大派閥の田中派のトップであり続け、ロッキード事件の裁判を続けながら権力を振るったのである。田中内閣後に続いた大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の各政権が樹立した裏では田中が動いていたという。大平の自民党総裁選の頃、「自民党の7割には(自分の)息がかかっている」と嘯いた。そのような話も伝わる。

この頃の田中に付いた通称が「目白の闇将軍」だ。あるいはマスコミが各内閣を「角影内閣」「直角内閣」「田中曽根内閣」と呼んだりもし、世間一般が「ナンバーワンとして総理大臣はいるが、実際に力を持っているのは田中角栄だ」と認識していたことがよくわかる。

ところが、昭和60年、田中派の竹下登が派閥内派閥「創政会」をつくるクーデターを起こしたのである。その20日後、田中は脳梗塞で倒れた。クーデター以来、酒量が非常に増えていたという。平成2年(1990)に政界を引退し、3年後に亡くなる。この時、ロッキード事件の裁判は終わっていなかった。

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