政調会長と選対委員長で「党四役」に

政調会長も名前の通り、政務調査会のトップだ。ここでは重要政策について調査し、研究し、立案を行なう。選挙に際して公約を作るのもここの仕事だ。政党本来の役目は三権のうち立法をつかさどる国会に関与することであり、当然、政務調査会の役割は大きい。

加えて、平成19年(2007)には選挙対策総局長が選挙対策委員長(選対委員長)と改称となって格上げされ、党四役と呼ぶようになった。選挙での勝利は当然、政党について重要命題である。なお、参議院議員会長、参議院幹事長がこれらの要職に匹敵するものとして扱われることもあるようだ。

では、自民党の中の意思決定はこれらの要職についた人々や、総裁=総理大臣によってのみ行なわれていたのか。そうとも言えない。ここにもう一つ、別の権力が加わることによって自民党の、ひいては戦後日本の政治は動かされてきた。それが「派閥」だ。

親分・子分の関係性で派閥政治が花開く

自由民主党は自由党と日本民主党が保守合同をすることによってでき上がった政党だ。そもそも成立時点から寄り合い所帯だったのである。また、目的は当時台頭してきた日本社会党に政権を譲らないことであった。つまり、意見が少なからず違うものの、国政の舵を握るために集まった人々が自民党であるわけだ。いくつかの派閥に分かれて対立や和解を繰り返すのは当然であったろう。

派閥は本来、「八個師団」と呼ばれて8つあったが、やがておもな派閥は5つ、五大派閥にまとまったとされる。もちろん、時代によって増減があり、必ずしも一定ではない。

なお、このような派閥が生まれた背景には、結党時に設けられた総裁公選制や、当時の選挙制度が中選挙区制(1つの選挙区で複数人が当選する)にあるとされる。

つまり、派閥のトップになるような有力政治家は選挙で自分が総裁になるために議員や党員を多く味方にする必要があった一方、各議員は中選挙区で他党だけでなく同じ自民党のライバルとも競う必要があったので。党内の有力政治家の庇護を求めた。いわば鎌倉時代の御恩と奉公のようなつながりの中で、親分・子分の関係性が生まれ、派閥政治が花開いたわけだ。