贈与交換は人類が必要とし、使い続けてきた原理
でも、それは現実のいち側面かもしれないけれど、すべてではないのです。東日本大震災のあとに人々が助け合い、今も都会の混雑するホームにおいても困っている人がいたら、人々が優しい態度で手助けすることがある。そういう、もうひとつの現実がある。そうした贈与交換の原理が、等価交換の原理の猖獗の下では、隠蔽されてしまうのです。
社会が、等価交換の原理に覆われてくると、贈与交換の原理が隠蔽されてゆく。しかし、本当は、この二つの原理が私たちの世界には存在しており、それらが補い合って社会の秩序を作っています。
贈与交換なんていうと「きれいごと」に聞こえるかもしれませんが、実は、人類がこれまでの歴史のなかで生き延びていくために必要とし、使い続けてきた原理です。それがなければ、とっくに人類は死滅していたでしょう。
自己欺瞞であっても「きれいごと」を言うことの意味
「きれいごとを言うのは、他者からよく思われたいという自尊感情の現れであり、自己欺瞞だ。自分は他人からどう思われようとかまわないから、きれいごとではなく、自分の言いたいことを言う」というようなことを言うコメンテーターやネット上の有名人がいます。でも、それって「他者が自分をどう思うかを計算している」という点では、同じじゃないかと私は思います。
少しでも、自分たちが生きている社会を生きやすい、風通しのよいものにするためには、自己欺瞞であっても「きれいごと」を言って自分のエゴを抑え込むことが必要であり、そのようにして少しずつ、「きれいごと」が不自然ではない社会が形成されていけば、それに越したことはない。私はそう考えます。
自己欺瞞であることを知っているものが発する「きれいごと」には、意味があるということです。