差別感情は同じような貧乏人同士の間で顕在化する
実際に、今のような就職難・低賃金の時代には、汗水たらして働いて得た賃金で、かすかすの生活を維持するのが精一杯という賃労働者がたくさんいるわけで、場合によっては生活保護支給額を下回る賃金で働いている方々も多いと聞きます。
これは非常に切実な問題ですね。みんな、金持ちや貧乏な人々、どちらに対しても公平性を求めます。けれど、どちらかと言うと、金持ちが税金などで優遇されることに対してはそれほど不公平感を持ちません。勝ち組と言われる成功者に対しては「自分が努力して金持ちになったのだから」と認め、身近なところに不平等感を感じてしまう。負け犬と呼ばれたくない。今の境遇は自己責任なのだから、しょうがない、というふうに。
差別感情というのは、大金持ちと貧乏人というような絶対的な差異のなかではほとんど顕在化しません。お互いに無関心にならざるを得ない。しかし、同じような貧乏人同士の間にある小さな差異には敏感になってしまうのです。
エコノミークラスの健常者が抱く嫉妬心
人は差別感情からなかなか自由になることができません。
列に並ばないで、スーッと自分だけ先に店に招き入れてもらえるような特権的な立場が欲しいというのも同根の感情によるものでしょう。
こうした感情は、誰にでもあります。
現実にも、差別は社会のあらゆるところで組織化され、構造化されています。飛行機の搭乗のときにはファーストクラスとハンディキャッパーの人々が先に呼ばれて搭乗します。その両方の人たちに対して、エコノミークラスの健常者は少なからず嫉妬心を抱きます。
ただ、嫉妬心こそ抱くものの、それが怒りとして表明されるまでには至りません。もしもエコノミークラスの客同士の間で、一方が優遇されたりすれば、不平等感を募らせ、もっと激しい怒りが湧いてくるかもしれませんね。
以前、「差別感情は誰にでもある。なのに、それをあたかもないかのようにきれいごとを言っているヤツがたくさんいる」と公然と主張した政治家がいました。
「そういうのは、やめろ。きれいごとは言うな」と彼は言う。「現実には差別は厳然とあり、世の中は不平等で冷徹なのだ」と。それは、ある意味では、現実を言い当てているのかもしれません。