日本人の労働観はどのように変化してきたのか。実業家の平川克美さんは「もともと多くの人々は第一次産業、第二次産業の生産業に従事していたが、1980年代ごろから『消費をするために働く』ようになった。一方、働くことが手段化したことで働く『喜び』がなくなってしまった」という――。(後編/全2回)

※本稿は、平川克美『「答えは出さない」という見識』(夜間飛行)の一部を再編集したものです。

周囲から見ると不合理な特権を得るための努力

前回からつづく)

ちょっと蛇足なのですが、関係のあるお話をします。

たとえば、おいしい行列のできる料理屋があるとします。そこに入るには、30分から1時間、待たなくてはなりません。けれど、店主と仲良くなっていれば、特別扱いをしてもらい、フリーパスで列に並ばずに料理を食することができるかもしれません。

そう考えて、そのために日頃から付け届けをしたり、特別な関係を作るための努力をする人が、この世の中には思った以上にたくさんいるのです。もちろん、これは自分が特別扱いされるために、努力をする人間がいることの譬え話です。

さて、列に並ばずに店に入れるような特権的ポジションを得るために努力する。この努力たるや、列に並んで30分から1時間待つのと比べたら、ずっと大きなエネルギーが必要だったりします。なのに、なぜかそうするんですね。特権を獲得するために合理的な行動をしていると当人は考えているのでしょうが、周囲から見ると極めて不合理なことをしているとしか思えない。

列があったら並んだほうがいい

たとえば、詐欺師は自分の詐欺を完全なものにするために、できうるかぎりの努力をします。その努力をまっとうなことに使えば必ず成功するくらいの労力を注ぐ。でも、そうしたまっとうな道は選ばず、詐欺を選択する。なぜなら、「詐欺をしたほうが利得が大きい」という考え方にとらわれてしまっているからです。そういう人間が、一定程度、いやそれ以上にいるのです。まあ、詐欺を一種の芸術であり、完璧な詐欺に生きがいを感じるなんていう人もいるでしょうが、それは別の話です。

私の場合は、たとえば列があったらそこに並ぶでしょう。人には与えられた条件というものがあって、それが公平性を担保しているならば粛々と受け入れるべきだと考えるからです。並びたくなければ、食べないまでです。

行列
写真=iStock.com/TkKurikawa
※写真はイメージです

何らかの特権を使って、人よりも先に店に入って、おいしいはずの料理を食べても、どこか無味乾燥なものになってしまうような気がします。どんな見事な料理であっても、自分が特権を使ってそれにありついているという意識になれば、本当においしく感じるかどうかは疑問だし、あまり楽しいことではないような気もします。

ここで、その人を満足させるのは特権意識だけです。この特権意識たるや、その人間のさもしさを浮き彫りにしているだけです。貧乏人のひがみかもしれませんが、貧乏人には貧乏人だけが味わうことのできる喜びというものがあると信じたいですね。