「つきあったことがない」と言えない空気
つきあうだけでなく、そこに告白やセックスが加わるとなると、ますます気が重くなる。そのコース全体には何やら儀式みたいなマナーがあって、マナーを知らないと笑われてしまうそうではないか。
「それ全部やらなきゃいけないの?」と思ってしまう人はおかしいのだろうか?
さらにそこに「他のことが大変でそれどころじゃない」が加わる。
自分のように社交不安障害になってしまった人は皆、恋愛感情を持たないというわけではない。けれども不安障害なのだから、不安や恐怖に向き合っている時間は人一倍長い。
なぜ自分だけがこんな思いをするのかという、運命への恨みもあった。いつも「ふざけんな」と感じているので、「アイ・ラヴ・ユーじゃねえんだよ」という気持ちもベースにある。
そんな毎日ならいとも簡単に、「恋愛なんてやらなくていいか」となってしまう。
自分にとっての恋愛とは、そのようなものだった。
こんなことを表明するのも長年文章を書いてきたのに、つい最近のことだ。そんなに珍しいことではないはずなのに。他の人がこんなことを言っているのも、あまり見かけない。
こういうことが言いづらいことのほうが、大きな問題かもしれない。
恋愛をしろという“圧”は、この社会ではあまりにも強い。強い“圧”の上から何番目かに確実に入る。
この社会がこれが幸せですよと言っている、「結婚」「子ども」「家族」。これらはどれも、まず男女一対一のペアを作らなければ、始まりさえしない。だからこそ、ペアを作ることには強い圧がかかるのだ。
お見合いはそんなに古くから定着していた習慣ではなく、結婚のための大前提になったのは明治時代からだ。その時代には、お見合いをしろという“圧”は大変なものだった。
恋愛結婚が見合い結婚より多くなったのも意外に最近で、1960年代からのことだ。
恋愛結婚が多くなれば、当然恋愛をせよという“圧”は強くなるのだ。80年代バブル期の恋愛をあおる“圧”は、日本史上最強だったに違いない。
子どもと結婚が幸せの条件ではなくなった
ただしそれも、結婚することが幸せのすべてを握っている時代の話だ。結婚は、だんだん幸せのすべてとは言えなくなっている。
最近は結婚しない人もすっかり多くなった。結婚しなくてもいいのなら、恋愛だってしなくてもいいではないか。
それでは結婚しない人が増えた原因は何かと言うと、それこそ本当にいろいろある。けれども一番広い目で見てみれば、少し意外だけれども、「もう人間がいっぱいになったから」だろう。
先の記事でも書いたとおり世の中が人間でいっぱいになってくると、我々は「もういっぱいだから増やすのはいいよ」と感じはじめる。結婚する人が減ることも、子どもを産まなくなることも、人間が増えすぎた先進国に共通する傾向だ。
子どもを産まなくてもいいなら、結婚もしなくてもいい。結婚しなくてもいいなら、恋愛もしなくていい。そんなふうに変わりつつあるのではないか。
つまり、恋愛、結婚、家族というこの社会が全員に迫っていた幸せのセットが、丸ごと魅力を失ってきたのだ。
恋愛はしなくてもいいけれども、やりたければもっといいかげんにやってもいい。そんなゆるさも出てきた。途中でやめてもいいし、何度してもいいし、一対一でなくてもいい。
もともとそんなものでよかったのだ。そもそも恋愛をすれば、結婚をすれば幸せになれるなんてことが嘘だったのだから。
「モテないぞ!」とか「私たちは結婚もできないのだ!」といった不満の叫びも、もちろん表に出たほうがいい。
けれどもそれはそれで別の形の、恋愛や結婚に重きを置く姿勢ではある。そうではなくもっと別の形で、恋愛や結婚をやりすごしてしまうことはできないだろうか。
全力で求めるのでも、全力で否定するのでもなく、恋愛をもっと軽く扱ってしまいたい。