バカにこちらの価値体系を受けいれる理由はない
そんなわけで、相手がどんなバカであれ、とにかくバカに説教をするとぶつかる最大の困難は、そもそも説教というものが、最低限の、共通のベースがあることを前提にしていることです。
そのベースを起点にして話しあい、自分たちのふるまいを評価しようとしているわけです。
しかし、たとえば自分の子どもだとか、より広く言えば自分と愛情で結ばれている関係ではないバカの場合、こちらの価値体系を受けいれる理由も、それを理解した上であらためて検討するという努力をする理由も、一切ありません。
一緒にルールを作ろうという意見さえ拒否する人を前にすれば、お互いを理解することは不可能になり、誰にもなすすべはありません。
バカはなぜ交渉しようとしないのでしょうか。それは、わたしたちが正しいとは全く思っていないからです。みなさんはこうおっしゃるでしょうか。だとしても、理性はわたしたちとバカの両方より正しいのだから、お互いが同じように従えばいい。なぜそれを拒否するのか。
どうやら理解されていないようですね。バカはわたしたちを求めていないのです。こちらに敬意をもっていないだけでなく、何よりも存在を眼中に入れたくないのです。わたしたちのことは考えないのです。
向こうの最大の望みは、わたしたちが全く存在していないかのようにすることです。より正確に言えば、わたしたちの存在とそれが引きおこすものには、一切正当性がないかのようにふるまうことです。
たとえば、わたしたちはいろいろな感情をもちます。欲望や考えや希望や恐れを抱き、相手が困るような要求をすることもあれば、逆に、愛情をもっていてもそれを抑えたりもします。そうしたものは、行動や言葉や人に与える印象として表面に現れます。
でも、バカから見ると、わたしたちは無で、何も起きていないのです。そうした態度はとても愚かですし、そもそもとても無礼なので、こちらはぼう然としてしまいますが、次のことをきっぱりと認めなければなりません。
両者の間で、お互いに思いやりをもつというあり方はたった今崩れ、成りたたなくなったのです。共存というあり方と言ってもいいでしょう。
わたしも、これを書いている自宅でそんな経験をしましたが、おかげでわたしの目の前には、大げさでなく、人生最大の、目もくらむような深い溝ができました。
対話ができないなら、正当性を主張しても通らない
こうなると悲惨で、なんとか対話らしきことをしようと努力しても全て無駄に終わります。なぜなら、バカとこちらの間には、もはや信頼も、共通の望みさえも、一切ないからです。したがって交渉など論外です。もう言葉も通じません。
そういうわけで、こちらが自分より上位にある正当なものをもちだしたところで(理性でも、道徳でも、神でも、何かわかりませんが哲学で言うところの「絶対」でも)、相手に無視されて対話にすらならないのでは、正当性を主張しても通りません。
そうしたものをもちだすのは、相手の道徳心を呼び覚ますための必死の試みだというのに、その正当性自体が、対話の最中に崩れ去ってしまうのです。
とにかく、わたしたちがバカに説教するときは、相手にはわからない方言で話しかけているようなものです。
もともと、言葉には、厳密なところもあいまいなところもあるため、仮に気の合う仲間同士でも、誤解はしょっちゅうです。でも、何か問題が起きたときに、言葉がちゃんと通じないと、誤解は大きく膨らんでしまいます。