逆に説教をしてくるバカ
実際、弁が立つ相手の場合、今度は向こうが意気揚々と説教をしてやり返してきます(残念ながら、たいていのバカは弁が立ちます)。
みなさんは、たとえば善と悪の違いをわかりたいと思っていたり、人のふるまいを場にふさわしいものにする望ましい方法があることを知っていたりと、道徳に関心が高いかもしれません。
しかし、たとえそうであっても、この場合、道徳を平然と無視しているのは向こうなので、そんなバカに道徳を説かれるいわれはありません。
さらに悪いのは、価値体系が違うバカを相手にしたときでしょう。
本物のバカな人たち(今わたしたちの友達ではなく、これからも決して友達になることのない人たち)は、わたしたちとは違う価値体系をもっていて、その価値体系では、わたしたちが許せないとみなすふるまいが完全に正しいと思われ、逆にこちらのふるまいが間違っていると思われる、などということが起こるのです。
価値体系をもたないバカ
さて、この本では、さまざまな真実を明らかにしていかなければなりませんが、今から書くことは、その中でも、一番認めがたく、一番奥が深く、一番耐えがたい真実かもしれません。
まず、人がバカになるときは、自分の意志でなるのではなく、たまたま間違えたとか、何かが及ばなくてとか、逆に何かが行きすぎてとか、その場の状況で仕方なく、というパターンもありますが、それとは別に、価値体系をもたないバカがいるのです。
こうした真実を明るみに出さなければならないのは残念ですが、わたしたちみんながこのことで苦しんでいるからには、物事を正面から見すえたほうがいいでしょう。
人類を豊かにするような身体的、言語的、文化的差異を、一般に「他者性」という言葉で呼びますが、この言葉が指すものはそれだけではありません。
「他者性」は、あらゆる社会と社会階層に、一貫性がなくても気にしない人が存在する、ということも意味します(しかも、単独に存在するのではなく、同調する仲間もいます)。
そうした人たちは、わたしたちと違う価値体系をもつのではなく(違う価値体系をもっているなら、その価値体系自体は興味深いです)、何の価値体系ももたないことに価値を見いだしていて、要するに、全く支離滅裂なのです。
そうしたバカをここでは「価値体系をもたないバカ」と呼ぶことにしますが、もしみなさんがそうしたバカの存在を疑っていらっしゃるなら(わたしもついこの前までなら疑ったでしょうけれども)、どんなバカなのか、ご紹介しましょう。
「価値体系をもたないバカ」は、うっかりタイプではありません。常軌を逸していることもありません。意地悪でもありません。しかも仕事では優秀です(本物のバカがまぬけなことはまれです)。
たとえるなら、輝かしい、本物のダイヤです。それも、今までわたしが近寄る機会があった中では一番純度の高いダイヤです。
この人たちは、理解する能力はありますが、理解しようという気がありません。別の言い方をすれば、自分のバカさに、勇ましくしがみついているのです。