説教をしても効果はない

だとすれば、実は説教めいた態度には合理的な根拠がない可能性もありますが、まずは、こうした態度を取っても、とにかく効果はないということを明らかにしたいと思います。

みなさんは次の文を、自分がバカに言われたと思って、あらためて読んでみてください。

「もうこんなことはダメだぞ。おれがどうこうじゃなくて、道徳上の義務を教えてやってるだけ」

どうですか? 痛くもかゆくもないでしょう。

虚言癖がある人の嘘の話を聞くのと少し似ています。あなたは相手が説教をしてくるのを、言わせておいても聞いてはいません。相手の話には真実のかけらもないと思っています。

したがって、説教は、現実の問題の答えとしては不十分だと認めなければなりません。ここでは、話者の間でお互いへの信頼が失われていることが問題です。

相手が、本当のことや、自分が受けいれられることを言えるだろう、という信頼がないのです。これは決定的に重要な点です。

たとえば、鳥が木の枝に止まっているように、言葉が木の枝にのっているとしたら、その枝が、バカの存在とバカの落ち度によって折れてしまっているようなものです。

より正確に言えば、人の対話の中にある何かに、ロックがかけられているのです。そのロックは、コミュニケーション機能が働かないようにすると同時に、相手への信頼という、ちょっとしたやり取りにおいても基本となるルールを無効にします。

説教をすれば、この信頼がないという問題を、最初の一回くらいは避けて通ることができます。

話し手は、自分の言っていることは自分の管轄下にはないので、自分のことを一切信頼していなくてもこの話を受けいれていいのだと、相手に示唆しているわけです。こう言っているのと同じです。

「道徳上のルールというものが本当にあって、それを作っているのはおれじゃないけど、そのルールでは、ああいうふるまいやこういうふるまいは禁止だから」

よく考えてみると、話し手は、説教めいた態度を取ることによって、自分の発言への関与を、かなり巧妙に隠しています。

実際、どちらも相手の言い分にもはや耳を傾けようとしない状況で、コミュニケーションを復活させるためには、自分の発言ではないふりでもするしかありません。

説教がうまくいかない理由

では、なぜ説教めいた態度を取っても、これほどまでにうまくいかないのでしょう?

理由はふたつあります。まず、その説教が正しいとする根拠が全くありません。それに、説教という方法を取ること自体が、話者間の信頼が失われていることの反映でしかないのです。

したがって、説教という形は何の役にも立ちません。バカはあなたが理屈を並べて認めさせようとしていることについて、一切知ろうという気がないのです。そもそも向こうは、あなたの理屈を全く理解できません。

こうして、信頼の危機は、説教の正当性を争う戦いになります。説教の正当性についてもめるなら、当然、説教の中身の受けとり方についても、もめることになります。その結果、説教は、表面的には品位と徳があっても、問題の場所を移すだけで、解決しないのです。