※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。
バカの言動にぼう然としても気をとりなおすには
(海水浴場にて。大きな音で音楽をかけている人と、そのそばに来た人の会話)
「すみません、こんにちは……。ここの砂浜、すごくいいですよね」
「はあ」
「信じられないなあ、この広さ、開放感……」
「……」
「やっぱりスピーカー持参ですよね、好きな音楽を聴くのは楽しいからなあ」
「はあ」
「うん、ぼくも大好きで、イヤホンを持ってきたんですけどね……。うーん。うちのパラソルの影、ご迷惑になったりしませんか?」
「いや。どうせ影は動いていくしね」
「ちょっとお願いが……つまり、そのほうが、みんながもっと楽しめるかもしれないなって……。音のことなんですが……」
「音が何か?」
本稿の内容
・バカは「苦痛」だが「悪」ではない。人は無意識の推論により、「苦痛」と「悪」を混同してしまう。
・バカと出会うのは、他の人と出会うのと同じ「出来事」であり、こちらの対応次第で、良い結果にも悪い結果にもなる。
バカはすぐうつる
先の記事では、バカに接するとバカになるという悪循環についてお話しし、その環のことを、「蟻地獄」と呼びました。
そんなことになるのは、バカが「バカ証明書」を首からぶらさげていないからです(「バカ証明書」が、よく見えるようになっていれば、早めに距離を取ることもできるでしょうに)。
それに、バカには極めてうつりやすいという特徴があり、バカがひとりいると他の人もあっという間にバカになります。
人をバカだと思ったときには、自分もバカになりはじめています。なぜなら、人をバカだと思うということは、冷静さと分析能力をなくしているということだからです。
したがって、バカな人たちから逃れようともがけばもがくほど、新たなバカが「自分の中に」生まれる手助けをすることになります。SF映画よりおぞましい、悪夢のような状況ですね。そうなると、みなさんがパニックになるのもよくわかります。