道徳心に火をつけることにより生まれる力

わたしは、道徳心に火をつけることをみなさんに求めていますが、実は、そうすれば力が生まれることを前提にしています。

つまり、バカを目の前にしたとき「実際には」その力がないことは承知していますが、道徳心に火をつければ、「理論上は」、やるべきことをやる力が必ず出せるはずなのです。

したがって、道徳心に火をつけることは、キリスト教の伝承における、聖性(人が聖人になること)や神の恩寵と同じ理屈によるものです(ただし、宗教や文化は問いません)。

道徳心に火がつけば、自分のものとは思えないくらいの、自分を超えた力、時には超人的な力が出ることもあるでしょう。そうした力が、わたしたちの足りない部分を補ってくれそうです。

だとしたら、道徳心に火をつけるには、自分を超えた力や、ともすれば超人的な力の媒体に、自分がなれるようにしなければなりません。

大きな矢印に乗った女性がポケットに手を突っ込んだ男性を見下ろしている
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その力を何と呼ぼうと自由です。神でも、神々でも、精霊でもいいですし、歴史の潮流でも、何らかの霊験でも、芸術家のインスピレーションでも、理性の力でもいいです。

そのどれであっても、とにかく普段以上の力がどこかから湧いてくることが、道徳心に火をつけるためには必要でしょう。

そして、その「どこか」とは、「よそのどこか」に他なりません(つまり、あなたやわたしや、ましてやバカからは、そんな力は出てこないということです)。

力の出どころはどこか、という問題については、大勢の先人たちが熱心に書いてくれているので、このくらいにしておきます。みなさんには、わたしが重要だと思う側面にだけ、ご注目いただければと思います。

そこを見ていけば、この道徳心に火をつけるという発想には、天才的とは言わないまでも、興味深い提案が含まれていることがおわかりいただけると思います。

この発想は、「バカと向きあうという困難を乗りこえる力を与えたまえ」という敬虔けいけんな祈りのようなものですが、それだけではありません。

こちらに向けられるバカの力を、わたしたちは押しとどめる必要さえなく、自然に引っこむようにもっていけるという展望を示して、バカの仕組みを説明してもいます。では、どうしたらバカの力は引っこむのでしょうか。