バカは「苦痛」だが「悪」ではない

すでにお話ししたように、バカと接すると心が傷つき、弱くなります。最初に受ける印象では、こちらの力が「完全に」奪われるような感じがするかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。

確かに、バカはわたしたちに苦痛を与えますし、たいていは自分のことも傷つけています。でもそれは、バカが「絶対的に」「悪」だということではありません。わたしたちがそう思ったり言ったりするのは、興奮してつい大げさになっているからです。

事実、「悪いことをすること」と、「(存在自体が)悪であること」は別ものですが、これまではパニックになって混同してしまっていたのです。

① バカは事態を悪化させる(=悪いことをしている)。
② バカはわたしたちに苦痛を与える(=悪いことをしている)。

①と②は同時に起こります。①は知性を用いた判断です。②は感じた内容で、バカとわたしたちの関係を物語っています。

①と②は明白な事実ですが、このふたつから、「バカとは、普遍的で絶対的な『悪』だとされているものを具現化したものである」という結論は導きだせません。でも、みなさんはそう思っていましたよね(正直に言ってください)。

しかしながら、絶対的な「悪」の概念とは、人間関係を考慮に入れずに定められるものであり、いつどんな場面で使われても、有効でなければなりません。

思考の飛躍

さて、そうした「悪」の概念が、疑いなく確かなものであるかどうかは、ここでは議論しませんが、みなさんは、苦痛のあまり、相対的な事柄から絶対的な言明へと思考が飛躍してしまったことを認めなければなりません。

相対的な事柄とは、この場合、バカの個人的な行動と、それに対するあなたの個人的な反応(苦痛)です。

絶対的な言明とは、前に出てきた「バカ滅ぶべし(この世の全てのバカなことは徹底的になくさなければならないし、できれば目の前にいるバカも消し去りたい)」のようなものを言います。

もう少し説明すると、バカの存在によってあなたが苦痛を覚える場合、その苦痛は、あなたに限定された、あなただけが感じる苦痛です。

たとえば、別れた夫や妻などが、「掃除機を返して」としつこく言ってくるときに感じる苦痛がそうです(一緒に暮らしていたときに使っていた古い掃除機です)。

あるいは、仕事仲間が、こちらは何度も同じことを言っているのに、指示を守ってくれないときに感じる苦痛もそうです。

そうした限定的な苦痛から、全てのバカは「悪」だという考えに至るのは飛躍です。

無意識の推論

こうした思考の飛躍は、個から全体に移っているので、思考のプロセスとしては、帰納法と呼ばれるものになります。でも、この帰納は誤りです。

こうして無意識に間違った推論をしたことで、あなたの中にバカの菌かウイルスが入ってしまったようです。事実、あなたは相対的でしかない真実を絶対的だと言い切り、全世界を裁く裁判官のようになっています(もちろん、無意識にではありますが)。

ところが、自分の意見は絶対だと思うことは、バカのすることです。バカはいろいろとうぬぼれているもので、自分を神さまのようにも思っています。