わかり合えない相手にはどんな態度で接すればいいか。フランスの哲学者のマクシム・ロヴェールさんは「価値体系が違う相手に説教しても、相手にはわからない方言で話しかけているようなもの。説教すること自体がバカげている」という――。

※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。

青空に映える仏像のシルエット
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誰でも必ずする「説教めいた態度を取る」本当の意味

バカがしつこいしほどにバカなおかげで、わたしたちは道徳哲学の基本をみっちり学べています。大丈夫です。考えることを楽しめるなら、バカではないと保証できます。

ですから、たとえこの先、この本の内容が難しくなって、みなさんが眉間にしわを寄せることになっても、いわゆる「哲学の喜び」には耐えられるとわたしは信じています。

「哲学の喜び」とは、おおざっぱに言えば、自分の概念を守っている壁を自分で壊すことです。壁を割り、外に出て、新たな領域を開拓しようではありませんか。

ということで、わたしと一緒にこんな仮説を検証してみてください(この仮説はまだ立証されていないと思います)。

《人はバカに説教をする。それは、ストレートな説教でも含みのある説教でも、自分の無能さに対する怒りから出る愚痴である。人はバカに道徳上の義務という概念を当てはめようとする。バカのせいでぼう然としてしまい、どうしたらいいのかわからなくなると、バカを、自分が思う、あるべき姿に変えようとするのだ。つまり、説教にはこんな言外の意味がある。

「わたしは自分の望み通りのふるまいをきみにさせることができないから、『道徳上の義務を守るべきだ』と言っている」》

おそらく、これに対してみなさんからは、「道徳をもちだすのが悪いような言い方だが、道徳を批判するのは違うのではないか」という意見があるでしょう。

「道徳があるから、人は節度を保って共に暮らしていけるのであり、何らかの価値体系を、みんなで守る絶対的なルールにしないと、どうしようもない」と。

さらにそれに対しては、こんな意見が考えられます。

「道徳批判に罪悪感をもつのは、道徳に対する盲信であり、それは必要のない罪悪感だからすぐに捨てていい。ルールに縛られて自主性や改革が妨げられては、どうしようもない」

価値体系としての道徳に敏感なのはいいことですが、それと、今わたしが述べていることは、全く無関係です。というのも、今は説教の話をしていて、まだ道徳そのものの話はしていないからです。

人と人との対話において、ひとりの人間が別の人間に対し(たとえ言外であっても)、説教めいた態度を取るということ。これは、是非はともかく、誰でも必ずすることです。一家のお父さんでも、誠実な女友達でも、逆に、空気を読めない、知ったかぶりな人でも、同じです。

説教に出てくる義務の概念は、相手を言葉で操って何らかの行動をさせることを目的としたもののように思えます。相手には、自分からその行動を取る理由はありません。義務の概念は、話し手にとってはこんな働きをします。

① 自分がその行動を望んでいるという事実が曖昧になる。
② なぜ説教をするような状況になったのか、考えなくてもよくなる。
③ 相手に求めていることに筋が通っているかどうかも、考えなくてもよくなる。

こうして相手を動かそうとしているわけですが、これでは、生産的な対話はできません。