創価学会の誤算となった創価大学

ただ、創価学会に誤算があったとしたら、それは創価大学のことではないだろうか。

創価大学が開学したのは1971年のことである。創立のための資金としては、池田大作の著作の印税などが使われたようだが、それは大石寺に正本堂が建つ前年のことだった。その点では、創価学会の運動が大きく盛り上がっていた時代に開学したことになるが、同時にそれは創価学会と公明党が言論出版妨害事件で世間の批判を浴びた直後の時期でもあった。つまり、創価大学は創価学会の曲がり角の時期に誕生したことになる。

当時の創価大学では、教員の多くは創価学会の会員ではなかった。そのため、創立者である池田は、開学したときの入学式に参列できなかった。言論出版妨害事件をめぐって教員の批判が強かったからである。

それでも、初期に創価大学に進んだ会員のなかには、東京大学にも合格していたのに、それを蹴って創価大学に進学した者もいた。「池田先生」の創設した大学で是非とも学びたい。そういう信仰の篤い若い会員がいたのである。

創価大学の大きな特徴は、仏教系の宗教団体が作った大学であるにもかかわらず、宗教、あるいは仏教を学ぶ学部や学科が存在しないことにある。それは一つには、創価学会が在家信者の組織で、大学に僧侶を養成する課程を設ける必要がなかったからだが、学生のほとんどが創価学会の信仰を持っていて、ことさら宗教教育を施す必要がなかったこともその原因になっていた。開学当初、開設された学部は法学部、経済学部、文学部だけだった。

創価学会の会員のなかでは、創価大学の卒業生はエリートである。ところが、大学の世界全体で考えれば、創価大学は一流大学としての評価を今のところは得ていない。つまり、創価大学を出ても、社会のなかでエリートと見なされることは難しいのである。

講義室
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高度経済成長期の終焉が信者数の減少に

1960年代なかばに、池田をはじめ創価学会の会員が夢見たように、会員の数が膨大になれば、事情は異なるものになっていたであろう。だが、創価学会の伸びは、高度経済成長が終焉しゅうえんを迎え、低成長、安定成長の時代に入ると止まった。折伏によって会員が増えることはなくなり、子どもや孫に信仰を受け継がせていく方向に転じた。だが、子どもや孫がすべて信仰を受け継ぐわけではないし、受け継いだとしても熱意ではどうしても親に劣る。

それは、創価学会だけに言えることではなく、新宗教全般に言える。特に平成の時代に入ってから、新宗教の各教団は、軒並み信者数を大幅に減らしている。そのことは、文化庁が刊行している『宗教年鑑』に目を通しただけでも明らかだ。そこには、各教団から報告された信者数が掲載されているものの、どの教団も相当数を減らしている(詳しくは拙著『宗教消滅』『捨てられる宗教』〈共にSB新書〉を見ていただきたい)。