「男とはこうである」説の問題点

【澁谷】平山さんは、「男とはこういうものである。以上」という分析をして終わらせるような語りに対して批判的で、「男とはこういうもの」という理解の仕方が、ジェンダー関係に何をもたらすかが問われなければならないとおっしゃっています(※)。なぜ、「男とはこういうものである。以上」といった分析の仕方に批判的なのでしょうか。

※「「男性性による抑圧」と「男性性からの解放」で終わらない男性性研究へ」『女性学』27巻

【平山】「男とはこういうものである」という言説は、人びとが個々の男性の行動や置かれた状況、ひいては社会全体をどう見るかを規定してしまう、いわば、色眼鏡になってしまうからです。そして、その色眼鏡は、問題をどう解決すべきかにも影響してしまう。

前編の話で言うと、長時間労働がネックになって、もっと家事育児にかかわりたいのにそれができずにいる男性がいるのは、間違いありません。他方で、さっきデータで示したように、いくら時間があっても、家事育児をしない男性も多い。にもかかわらず、「長時間労働がネックになって家事育児に参加できない」だけを研究者が言い続け、専門家としての権威によって、それこそが男性の「真の姿」であるかのように人びとに思わせてしまったら、どうなるか。先ほど清田さんもおっしゃっていたように、就業システムだけが問題で、この状況を変えるために個々の男性にできることなどないかのような現実がつくられてしまうでしょう。このとき研究者は、男性を免責すると同時に無力化してもいます。

「男性とは~」と発信する専門家には「生産者責任」がある

【平山】「男性とはこういうものである」という言説を提供することで、われわれは、色眼鏡になりうるものをどんどんつくり出しているのです。そういう色眼鏡が、社会の中でどのように使われる可能性があるのか。それによって、かえって見えなくなってしまう問題はないか。そういうことを常に意識する必要があると思うんですね。

「男とはこういうものである」と理解するだけならその人の自由ですが、それを公共的な言説として世に放った瞬間、しかもそれを専門家として放った瞬間、その理解は、現実そのものに影響を与えうるんです。自分の放った言説がどのように使われ、どのような影響を及ぼしうるか、いわば言説の「生産者責任」に、もっとセンシティブであってほしいということです。