こうした語録は、いずれも内容を分類して構成され、それぞれのまとまりに項目・タイトルがつけられた。要はインデックスであって、朱子をはじめ大家の解説は、これですぐとりだせる。
テキスト化は経書だけではなく、史学にも及んだ。歴史はやはり『資治通鑑』。しかし294巻もあっては、いかにも多すぎる。やはりその入門書がなくてはならない。
そこでできたのが『資治通鑑綱目』。経書で『四書集注』を作ったように、学習指導ガイドとして、まったく同じ発想にもとづく著述であった。分量を5分の1にスリム化して59巻にし、「綱」「目」という見出し・インデックス・レジュメをつけている。とにかく入りやすくしようとしたのである。
けだし新興のエリート・士大夫に対し、せめてこれだけはマスターせよ、という合理的な配慮であり、メッセージであった。今日的な教科書・教育課程の概念・方法に近いといってよい。
宋学のスローガンの一つに「聖人学んで至る可し」、学べば聖人になれる、というのがある。成り上がった「士大夫」の理想と矜恃をよくあらわしていようが、もちろん聖人の前に、士大夫にならねばならない。エリートも学べばなれる。それを学べるように思想化し、理論化し、体系化し、システム化し、カリキュラム化したのが、朱子学の絶大な役割であった。
朱熹が生んだ受験産業
朱子が活動した本拠であり、学派の本山でもある福建省の建陽は、宋代以後の出版業の中心地でもあった。製紙が盛んという生産条件に恵まれていたばかりでなく、それ以上に近辺で書物の需要が大きかったからである。
福建は山がちで海に迫った地勢で、耕作可能な田土は狭小、つとに人口圧に耐えられず、福建の人々は海上に餬口の資を求め、船乗り・商人となった。それと同時に勤しんだのが、学問である。
科挙合格者の数にはっきりあらわれている。宋代の科挙の最終合格者2万8933人のうち、福建は7144人で、ほぼ4分の1、圧倒的なシェアを誇った。
学問と受験は別物である。朱子本人もそうだった。だから福建が学問・文化にひいでた土地だというわけではない。むしろ開発が遅れ、しかも土地・産物に恵まれない新開地である。なればこそ人々はかえって、数少ない生計維持・社会上昇の具として、科挙の受験にとりくんだ。出版業が栄えたのは、そんな土地柄だったからで、体のいい受験産業にほかならない。
もちろん刊行物の内容も、そうしたニーズに応じたものである。受験に応じるため課題を手早く学べるハウツー的な参考書が多くを占めた。当時の福建がそうした出版のメッカではありながら、宋代・全土を覆う傾向ではあった。これまた一種の合理主義といえるからである。