塾や予備校といった「受験産業」のルーツはどこにあるのか。京都府立大学の岡本隆司教授は「中国の宋代の『朱子学』にあるのではないか。創始者・朱熹は『学べば聖人になれる』という思想から朱子学をたてた。ところが、その結果、科挙試験の対策しか学ばない人間ばかりになってしまった」という。岡本教授の著書『悪党たちの中華帝国』からお届けする――。
宋代文官試験図(11世紀)
宋代文官試験図(11世紀)(写真=Qiushufang/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

朱子学の創始者・朱熹とは何者か

朱熹は1130年10月18日、現在の福建省の尤渓ゆうけい県で生まれた。父の朱松しゅしょうが当時、福建の地方官に任じていたから、育ったのも福建、生涯の活動も福建が中心である。

朱熹
朱熹(写真=『社会历史博物馆』より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

朱熹は父の友人の劉子羽りゅうしうの指導のもと、福建の崇安県・建陽県を転々としながら受験勉強をした。そのかいあって、19歳で科挙の最終試験に合格する。

しかし優れた学者が必ずしもテストに強いわけではない。最下位から数えたほうが速い成績だった。そのため初めての任官ポストも最も低い品階で、福建の泉州同安県の事務官である。

こんな第一歩だったこともあって、朱熹の官歴は決して華々しくはない。かれが実際に官僚として実働したのは、地方官として9年、中央政府で40日といわれる。それでも治政に精励し、不合理な税を省こうとしたり、社会施設の充実をはかろうとしたりと、とにかく民利を興すに熱心だった。

むしろ地方官としては、真摯しんしかつ合理的でありすぎたようである。実地の行政に弊害があると坐視できずに、非違ひいを弾劾した。中央の大官と衝突しても、安易な妥協を排し、主張をまげない。そのため在職は、どこでも長続きしなかった。

朱熹が残した学問

そうした政治的キャリアに、朱熹の本領があったわけでもない。やはり重要なのは、かれが遺した学問であって、のちかれの名を冠して「朱子学」とよばれ、以後の儒教の本流・正統を占めるようになったものである。

朱子学は「道学」「理学」ともいった。「道」も「理」も、みちすじ、のいいで、形而上の根本理念のこと、「道理」という熟語もある。そうした根本理念に対し、その実現手段・現象形態、ないしそれに基づいた行動・表現など、具体的に現出してくるものもあって、このような形而下の具象を「器」「気」という。

朱子学はこのように「道・器」「理・気」といった二分的な概念把握をおこない、世界全体を体系づけようとした。理気二元論と呼ぶことが多い。それぞれを現実の文脈に応じて、「体・用」「知・行」とも言い換えている。