朱子学の創始者・朱熹とは何者か
朱熹は1130年10月18日、現在の福建省の尤渓県で生まれた。父の朱松が当時、福建の地方官に任じていたから、育ったのも福建、生涯の活動も福建が中心である。
朱熹は父の友人の劉子羽の指導のもと、福建の崇安県・建陽県を転々としながら受験勉強をした。そのかいあって、19歳で科挙の最終試験に合格する。
しかし優れた学者が必ずしもテストに強いわけではない。最下位から数えたほうが速い成績だった。そのため初めての任官ポストも最も低い品階で、福建の泉州同安県の事務官である。
こんな第一歩だったこともあって、朱熹の官歴は決して華々しくはない。かれが実際に官僚として実働したのは、地方官として9年、中央政府で40日といわれる。それでも治政に精励し、不合理な税を省こうとしたり、社会施設の充実をはかろうとしたりと、とにかく民利を興すに熱心だった。
むしろ地方官としては、真摯かつ合理的でありすぎたようである。実地の行政に弊害があると坐視できずに、非違を弾劾した。中央の大官と衝突しても、安易な妥協を排し、主張をまげない。そのため在職は、どこでも長続きしなかった。
朱熹が残した学問
そうした政治的キャリアに、朱熹の本領があったわけでもない。やはり重要なのは、かれが遺した学問であって、のちかれの名を冠して「朱子学」とよばれ、以後の儒教の本流・正統を占めるようになったものである。
朱子学は「道学」「理学」ともいった。「道」も「理」も、みちすじ、の謂で、形而上の根本理念のこと、「道理」という熟語もある。そうした根本理念に対し、その実現手段・現象形態、ないしそれに基づいた行動・表現など、具体的に現出してくるものもあって、このような形而下の具象を「器」「気」という。
朱子学はこのように「道・器」「理・気」といった二分的な概念把握をおこない、世界全体を体系づけようとした。理気二元論と呼ぶことが多い。それぞれを現実の文脈に応じて、「体・用」「知・行」とも言い換えている。