自然児として正直に頼朝を愛し続けた

これは私が政子ほどはしたない女でない証明にはならない。私は政子よりミエっぱりなのだ。もしそんなことをしたら、

――あの女、二号の家をぶっこわしたとさ。

と、みんなのうわさのまとになるにちがいない。それがはずかしいのである。

しかも政子はナガイミチコふぜいとはちがって、鎌倉のトップレディーなのだ。裏長屋のオカミさんならともかく、大臣夫人や一流会社の社長夫人がそういうことはなかなかやれるものではない。

それをあえてやりとげた政子という人は、ほんとは「勇気ある人」なのではないだろうか。そしてある意味では、彼女は、鎌倉のトップレディーとなったときも、土の臭いの中で生いそだった、自然児としての正直さを失わなかったのだ、ともいえそうだ。

いわばこれは自然児政子の、率直な頼朝への愛の表現だ。その「愛」を人呼んで「悪徳」という。愛とはカナシイものである。

頼朝と政子の生活感覚の決定的な差

ところで、こんなに政子に手痛い愛のパンチをこうむりながら、頼朝はいっこうにこりずに第二、第三の情事をくりかえす。そして政子はそのたびに、われにもあらぬ狂態を演じることになるのである。

もっとも頼朝の浮気ばかりを責めるのは酷かもしれない。当時は一夫多妻は常識だったし、十四歳まで都にいた彼は、ただれた愛欲の世界も見聞きしていたにちがいない。

が、坂東の気風は少しちがっていたようだ。複数の妻はいたけれど、何か一つの秩序があり、都の結婚とは少しちがっていたのかもしれない。してみると頼朝と政子の間には決定的な生活感覚の差があったことになる。

いわば第何夫人かまで許されるアラビア人が、一夫一婦制しか知らない女を妻にしたような……。妻にあなたは不貞だ、となじられて、

「わからんなあ」

と目をぱちくりさせている夫。頼朝の役回りは案外そんなところだったのではないか。そうなると政子のこの猛然たるやきもちも、何やらこっけいなものに見えてくる。

が、後世の彼女に対する批評はかなりきびしい。この猛烈なやきもちから、彼女をかかあ天下第一号と認定し、しかも夫の死後、尼将軍などとよばれて、政治の表面に登場するので、出しゃばりな、権勢欲の権化とみているようだ。