和田を利用して出世した2人

和田合戦が鎮圧されると、5月5日に義時は、義盛が長く務めてきた侍所別当に就任した。つまり政所別当と侍所別当を兼務し、政治と軍事の大権を掌握したのだ。

そして6日には、義時の家人にすぎない金窪行親が侍所所司、すなわち次官になっている。自分の家人に御家人を統括させるということは、義時は一般の御家人よりも確実に上位に昇ったということだ。

また、当然ながら、幕府では三浦義村の存在感が高まっていく。要するに、素朴な「癒やしキャラ」を挑発した男と寝返った男が、力を増したのだ。とりわけ北条氏の覇権を決定的に確立する契機が、北条と肩を並べたいと願った和田義盛の行動だったのは、歴史の皮肉だといえよう。

川にさらされた234の首

ところで、合戦の鎮圧後、義時は金窪行親らに命じて義盛以下の首を集めさせ、さらに甲斐国などで自殺した和田方の首も鎌倉に届けられ、片瀬川の河畔に並べられた和田方の首は、義盛以下234に及んだという。

頼朝の挙兵以来、苦楽を共にしてきた和田義盛の首を、一族もろとも川べりにさらす。その非情さがあってこそ、北条の覇権は確立された。しかし、「癒やしキャラ」の首がさらされるのは、視聴者にはいたたまれないことに違いない。

【関連記事】
NHK大河ドラマでは描きづらい…北条義時がライバル和田義盛にやったエグすぎる仕打ちの中身
NHK大河ドラマですべては描かれない…3代将軍・源実朝を殺害した犯人のヤバすぎる動機
「未読スルー」でもラブレターを送り続ける…歴史書に記されている北条義時の異常すぎる婚活事情
日本に「本物の城」は12しかない…城めぐりを楽しむ人たちに伝えたい姫路城と小田原城の決定的違い
「床上手」とはどういう意味か…江戸時代の遊廓で女性たちが体現していた「色好み」