出版も教科書も社会的共通資本
【原田】うちの父親も旧制高校出身なのでその感覚はわかります。
【永井】同時に私は親父たちの世代、旧制高校出身者のエリート意識に対する反発心もありました。エリートがこの社会を支えるという使命感を持つのも大切。
しかし、それ以上に、一人ひとりの人間が自分のやるべきことを考えることが大切。そういう広く深い土壌が必要ではないかと。
【原田】そちらの方が成熟した社会ですよ。だからこそ、永井さんは、書店経営の他、本の流通、図書館の充実に尽力された。永井さんの生い立ちをお聞きしていいでしょうか? 生まれは米子市ですよね。育ちは……。
【永井】親父の教育方針で中学2年生から東京です。とはいえ、親父が望んだような大学、学部には進みませんでした。たまたま、卒業が近づいたとき、鳥取市の書店が新学期直前に傾いたんです。
そこは教科書の供給のかなりの部分を担う規模の書店でした。緊急に代行しないと地元の教育に支障が出る。
【原田】永井さんは東京に残って大学院に進むつもりで、家庭教師と新聞配達を掛け持ちして資金を貯めていたとか。
【永井】大学3年生になってようやく学ぶことの面白さに気がついたんです。しかし、親父とお袋が上京してきて説得されました。(第二次世界大戦の)戦中戦後と母がずいぶん苦労していたのを知っていました。母親の一滴の涙に負けました(笑い)。
【原田】今から50年以上前のことですね。当時、情報の地方格差は今以上に大きかったのではないですか?
【永井】地域の出版文化の構造的な問題、流通の問題。そのときの原体験が大きいですね。出版も教科書も社会的共通資本なんです。それを少しでも良くしようと、みんなで一生懸命やってきたという感じです。
SDGsをいち早く体現した孤高の天才
【原田】現在、とりだい病院は新病院に向けて動き始めています。そこで社会的共通資本という概念は一つの鍵になると考えています。
【永井】98年に発刊された宇沢先生の『日本の教育を考える』という本で最終章として〈鳥取県の「公園都市構想」〉と一章を割いています。これは当時の西尾邑次(鳥取県)知事が提唱した公園都市構想に呼応したものです。
公園とは、それまで国王や貴族が私物化、占有していた美しい庭園や文化的、学術的、芸術的施設を一般市民に開放したものが公園の始まりであると。この公園を中心に街を作って行く。
【原田】西尾さんは83年から99年まで県知事を務められましたね。
【永井】宇沢先生は〈鳥取県の人間的、自然的、歴史的、文化的、経済的特性を考慮すると、教育と医療にかかわる社会的共通資本を中心として「公園都市」の形成をはかることが望ましい〉と書いています。これはまさに今、とりだい病院が計画している新病院と重なります。
【原田】教育と医療、まさに鳥取大学ととりだい病院のことです。
【永井】宇沢先生は、この理念を具現化するために、中高一貫の全寮制の「農社学校」、「リベラルアーツ」の大学としての「環境大学」などの事業を起こして、その実態と経験をふまえて、弾力的に未来を構築していくべきだとも書かれています。その中核事業が〈長期療養、リハビリテーションの医療機関を中心とした「医療公園」〉であると。
【原田】ここには自然環境もあるし、温泉もある。新型コロナでストップしていますが、他の地方から患者さんに来てもらうというメディカルツーリズムを我々も考えていました。
【永井】現在進んでいる新病院についても、自然と共生した市民に愛される新しい病院となって欲しいです。
【原田】自然との共生は宇沢先生の中核思想の一つですね。新技術、文明と自然が衝突することがあります。宇沢先生は前出の『自動車の社会的費用』で自動車という文明の利器の負の部分をとりあげています。
20世紀は自動車の時代ともいえます。あえてそこに戦いを挑んだ。相当な摩擦があったはずです。さらに成田空港問題、公害問題などに果敢に取り組まれました。
【永井】宇沢先生は、現実社会の中の弱いもの、小さいものの存在を常に視野に入れられていた。先生の優れた評伝『「資本主義と闘った男」宇沢弘文と経済学の世界』を書かれた佐々木実さんは、“前期宇沢”と“後期宇沢”と分けています。
宇沢先生は、『自動車の社会的費用』で前期宇沢の光り輝く栄光を捨てたんです。経済界、経済学の世界と溝が出来た。それを恐れることもなく自分の信念を貫き、行動した。今でこそ、SDGs(持続可能な開発目標)という概念があります。でも、当時は理解されることは稀だった。孤高ですよ。
【原田】天才の孤独といえるかもしれません。