「ゲテモノ」扱いされた屈辱のマグマが爆発したよう

清水氏の多作ぶりは、デビュー前につもりつもった屈辱のマグマが大爆発したかのようだった。『小説兜町』でデビューする前の数年間は、野間宏の『真空地帯』、椎名麟三の『永遠なる序章』、三島由紀夫の『仮面の告白』などを世に送り出し、純文学の名編集者とされた河出書房新社の坂本一亀氏(音楽家・坂本龍一氏の父親)に原稿を持ち込んでいたが、「ゲテモノ」扱いされ、講談社の女性編集者には、預けた原稿を8カ月間にわたって机の下の足置きにされ、結局は読んでももらえなかった。

それ以外にも数多くの編集者に原稿を持ち込んだが、『小説兜町』の斬新さを見抜いた三一書房の編集者、井家上隆幸氏に出会うまで、長い間辛酸を舐めた。

原稿
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清水氏の作風は、もう1人の経済小説の大家、城山三郎氏の作風とは好対照だった。城山氏はどちらかというと、人物や企業の明るい面を描くのに対し、清水氏は企業社会の暗部を剔抉てっけつする作品を書いた。また城山氏は女を書くのが苦手だったが、清水氏は得意だった。これは清水氏の生い立ちから来ている。

清水氏は玉の井(現・墨田区向島5、6丁目近辺)の娼家で育ち、少年時代から、毎夜、欲望を吐き出しにやってくる男たちと、生きるためにそれを迎える女たちの生態を目のあたりにしていた。また東京大空襲の際には親戚を捜して死体の山のなかを歩き、終戦前後に食べ物を得るために兄と地方に買い出しに行き、かつては虐げられ、馬鹿にされていた農民が、時代の変化に応じて、居丈高になるのを目の当たりにした。

株式ライターになる前の“真逆”の素顔

しかし筆者は、今般上梓した清水氏の伝記『兜町しまの男』(ボイジャー・プレス)の取材をする過程で、清水氏の執念ともいってよい作家活動の原動力は、単にそれだけではないと感じた。

戦後、清水氏は共産主義運動に身を投じた。10代の後半から結核で入院を余儀なくされる20代の初めまで、有楽町にあった産別会議(全日本産業別労働組合会議=電産、国鉄、鉄鋼、機器、全炭などによって結成された共産党系の全国中央組織)で、熱心に共産党活動をおこない、昭和24年5月の公安条例反対デモでは、進駐軍の憲兵に逮捕され、愛宕警察署で一晩を過ごしたこともあった。

その後、共産党内部の権力闘争のとばっちりを受けて党活動から離れ、共産主義とは真逆の株式ライターへと転身した。しかし、書き手として企業活動を仔細に観察しながら、若き日の自分が目指した民衆革命の理想と資本主義社会を照らし合わせていたように思われる。