ハッピーエンドはほぼないのに、なぜか刺さる
清水氏の年に8~12冊という新作の発表ペースは人間ばなれしている。1冊あたり400字詰め原稿用紙で500枚程度なので、年に12冊出した年は、6000枚の原稿を書いたことになる。これは清書するだけでも大変な量だ。しかも、作品のクオリティはどれも確かで、清水氏の作品を角川文庫に入れるべきであると、角川書店の編集者、橋爪懋氏は当時の社長・角川春樹氏にこう進言している。
「清水一行という作家なんですが、経済小説や推理小説を書いていまして、集英社の文庫もよく売れています。ひととおり読んでみましたが、ぐいぐい引き込む力はすごいです。ハッピーエンドはほとんどないのですが、読み終わったあとのやりきれなさとか憤りが、ものすごく心に突き刺さってきます。ぜひとも角川文庫に入れたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
これに対して、春樹氏は「よし、すぐいけ」と即座に了承したという。
清水氏の秘書を務めた佐藤俊江氏によると、清水氏は右手の腱鞘炎のため、口述筆記をおこなっていた。その際、清水氏は何も見ずに喋り、それを佐藤氏が書き取り、清書した原稿は見ずに、そのまま雑誌に掲載し、さらにゲラの作業なしでそのまま本にしていたという。それがきちんとした作品になっているのだから驚異的というほかない。
書いても書いてもネタが尽きない時代だった
こうした能力は、清水氏が作家デビュー前に「週刊現代」(講談社)のアンカーマンを務めていたときに培われたものだ。アンカーマンとは取材記者が書いた取材原稿を記事にまとめる仕事で、筆力は当然として、情報を整理し、読ませる原稿にする構成力や、週刊誌の締め切りに間に合わせるスピード(瞬発力)が要求される。
「文藝春秋」(文藝春秋社)のアンカーマンだった立花隆氏も、原稿を書くときはしばらく考えをまとめた後、一気にペンを走らせ、それがそのまま素晴らしい原稿になっていたと立花氏の秘書だった佐々木千賀子氏が語っている。
尋常ならざる新作発表ペースを維持するため、清水氏は最盛期で10数人の取材スタッフを抱えていた。専業のスタッフは3人(うち1人は『ぼくらシリーズ』(角川書店)で青少年向け小説の大家となった宗田理氏)で、それ以外は新聞社や通信社の記者、作家志望で筆力のある者(官能小説家・漫画原作者になった板坂康弘氏など)、金融や自動車など特定分野の取材に強い者などだった。
清水氏が活躍したのは、昭和40年代から平成初期にかけての時期である。この時代は、経済活動に対する各種規制が未成熟で、総会屋なども跋扈し(清水氏は芳賀龍臥や御喜家康正といった有名総会屋も情報源にし、企業の裏情報をすくい上げていた)、日本経済もぐんぐん成長し、個性的な経営者や経済事件も多かった。いわば書いても書いても、書ききれないほどネタがあった時代である。