女王の周遊はこのチャーチルの期待に違わぬものであった。たとえばオーストラリアでは、かつての祖父ジョージ5世も顔負けの活躍を示した。

このとき女王夫妻は、57日間で250以上の公務をこなし、70もの市町村を周り、自動車で207回、飛行機で33回の移動を行った。当時のオーストラリア国民(全人口900万人)のうち、女王夫妻を一度は見たという国民は、実に75%(600万~700万人)にも達していたとされる。

群衆に手を振るエリザベス2世。1970年ごろ、オーストラリア・クイーンズランド州にて
群衆に手を振るエリザベス2世。1970年ごろ、オーストラリア・クイーンズランド州にて(写真=Queensland State Archives/CC-BY-3.0-AU/Wikimedia Commons

憲法学者の高柳賢三は、戦後の日本国憲法で天皇を「象徴」と表現する際に、GHQの高官たちが念頭に置いたのが、「英国王は英コモンウェルスの成員の自由な結合の象徴(Symbol of the free association of the members of the British Commonwealth of Nations)」であると規定した、1931年の「ウェストミンスタ憲章」の前文であったと指摘する。

かつてジョージ6世は、「君主というものは権威を付随した抽象的な象徴(abstract symbol)にすぎないが、国王自身は個人なのだ」と、コモンウェルスの首相たちに漏らしたことがあった。その長女のエリザベス2世は、即位して最初の「クリスマス・メッセージ」をニュージーランドのオークランドからラジオを通じて世界中に発信した。そのとき女王はこう語りかけている。

「私は君主というものが、我々の団結にとって単に抽象的な象徴であるだけではなく、あなたと私の間を結ぶ、個人的な生きた紐帯であることを示したいのです」

アパルトヘイト廃止と女王の影響力

その女王が、コモンウェルスの人々との「個人的な生きた紐帯」の役割を果たした如実な事例が、彼女の最初の海外訪問地である南アフリカでの世界的な大事件と関わっていた。

1979年8月にアフリカ大陸で初のCHOCMとなったザンビア(ルサカ)の会議の折には、すぐ南隣の南ローデシア(1965年にコモンウェルスから脱退)の黒人差別政策を終わらせることが、最大の争点となっていた。しかしこの年にイギリスで首相に就任し、CHOGM初参加となったマーガレット・サッチャー(1925~2013)は、この問題に大した関心を示していなかった。主催国ザンビアの大統領ケネス・カウンダ(1924~)ら黒人首脳たちと、サッチャーとの間には冷たい空気が流れるようになっていた。

このとき、初日の晩餐会で一人部屋の隅にたたずんでいたサッチャーを、昔からの知り合いである黒人首脳たちが談笑する場に連れ出し、両者の間を取り持ったのが、ほかならぬ女王陛下であった。

サッチャーはこのとき、南ローデシア問題の深刻さを認識し、翌日の会議からはまるで別人になったかのごとくに積極的に発言し、翌月にはロンドンにあるランカスタハウスで南ローデシア各派の指導者を一堂に集めて交渉を開始させた。それは翌80年に、黒人にも初めて参政権を与えた「ジンバブエ(南ローデシアが改名)」の独立につながった。