なぜ日本は太平洋戦争に踏み切ったのか。毎日新聞の栗原俊雄記者は「昭和天皇は開戦を決めた御前会議で、和歌を詠むだけで、戦争回避を求める発言はしなかった。和歌の意図は戦争回避だったと考えられるが、作家の五味川純平も指摘しているようにそれだけでは不十分だったのではないか」という――。

※本稿は、栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)の一部を再編集したものです。

最高戦争指導会議
最高戦争指導会議(出典=「毎日新聞」昭和20年1月1日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない」という近衛文麿の決意

1941年9月5日、近衛首相は天皇に拝謁し、大本営政府連絡会議がまとめた「帝国国策遂行要領」(「要領」)を内奏した。要点は、

(1)日本は自存自衛を全うするため、対米英蘭との戦争を辞さない決意のもと、おおむね10月下旬をめどに戦争準備を完整させる
(2)(1)に並行して米英との外交で要求貫徹に努める。交渉における最少限度の要求は別紙の通り
(3)(2)の外交により10月上旬ごろになっても要求貫徹のめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する

というものだ。

日本側が求める「最少限度の要求」のうち、主なものは、

(A)米英は日本の「支那事変処理」に容喙ようかいしたり、妨害したりしないこと
(B)米英は極東において、日本の国防を脅かすような行為をしないこと
(C)米英は日本が必要な物資を獲得するのに協力すること

である。さらに、譲歩できる限度も想定した。

①日本は進駐した仏印(フランス領インドシナ、現ベトナム)を基地として、中国以外の近隣地域に武力進出はしない
②公正な極東平和が確立した後、仏印から撤兵をする
③フィリピンの中立を保障する

というものであった。「要求」は、ハル4原則[(1)他国領土保全と主権尊重(2)内政不干渉(3)通商上の機会均等(4)太平洋の現状維持]と真っ向から対立するものである。その要求をのませる対価として、「中国以外の近隣地域に武力進出はしない」などの前記の「譲歩」①~③は、あまりにも見劣りした。筆者のみるところ、10円で100円を買おうとするようなものだ。

ともあれ、「要領」は自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない決意をし、10月下旬をめどに戦争準備を終える、そして10月上旬までに対米交渉で上記の要求を貫徹できるめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭戦争を決意する、という内容である。このときすでに、日本は非常に重要な物資である石油が入ってこなくなりつつあった。対米交渉妥結が延びれば延びるほど日本の戦力、国力は削られる。だから交渉に期限を設けることも必要ではあっただろう。