開戦の気配を感じ取った昭和天皇

ただ外交は相手の意思や都合もある。敗戦後の日米関係ならともかく、この段階での日米関係はどちらかが相手の要求をすべてのむ、という関係ではない。互いの譲歩が必要なのだ。交渉期限を設定してしまうと、互いの譲歩の余地が少なくなってしまう。しかも「開戦決意」までたった1カ月しかない。『平和への努力 近衛文麿手記』を見ると、天皇は以下のように述べた。

近衛文麿の肖像画
近衛文麿の肖像画(出典=内閣情報部『写真週報』創刊号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。この点について明日の会議で統帥部(陸軍参謀本部海軍軍司令部)の両総長に質問したい」

このあたり、戦争回避を願う天皇の視点は鋭い。危機感が増したのだろう。

近衛は、「一と二の順番は軽重を表すものではなく、政府としてはあくまでも外交交渉を行う。どうしても交渉がまとまらなければ、戦争の準備にとりかかる」、という趣旨の返事をした。その上で、翌日の御前会議の前に杉山元陸軍参謀総長と、永野修身海軍軍令部総長を呼んで聞くことを勧めた。御前会議には文官もいて、軍事の詳細を話し合うのは、はばかられたためだろう。天皇は「すぐに呼べ。首相も陪席せよ」と命じた。

「どのくらいの期間で片付ける確信があるのか」

天皇は両総長に、要領の順番について近衛にしたのと同じ質問をし、両総長は近衛と同じように答えた。天皇はさらに杉山に聞いた。以下、前掲の近衛手記から再現してみよう。

天皇「日米戦争となったら、陸軍はどれくらいの期間で片付ける確信があるのか」
杉山「南洋方面だけは3カ月くらいにて片付けるつもりであります」
天皇「お前は支那事変[日中戦争]が勃発した時の陸相だ。その時、『事変は1カ月くらいにて片付きます』と申したことを覚えている。しかし4年の長きに渡ってまだ片付かないではないか」
杉山「支那[中国]は奥地が開けており、予定通りの作戦が難しいのです」
天皇「支那の奥地が広いというなら、太平洋はさらに広いではないか。いかなる確信があって3カ月と言うのか」

杉山にとって、3カ月で南方作戦を成功裏に終わらせるのは願望であり、それを実現させる確信はなく、確信の裏付けとなる客観的なデータなどなかったのだろう。だから「3カ月」と判断する理由を説明できなかった。永野が言葉を添えた。

永野「今日、日米の関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際に来ております。手術をしないでこのままにしておけばだんだん衰弱してしまう恐れがあります。手術をすれば非常に危険があるが助かる望みもないではない。その場合、思い切って手術をするかどうかという段階であるかと考えられます。統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思い切って手術をしなければならんと存じます」