イーデンとの会見を終えた女王は、すぐさま保守党幹部に相談させ、第2次大戦時の首相サー・ウィンストン・チャーチル(1874~1965)など「長老政治家」の意見も徴させ、最終的には蔵相のハロルド・マクミラン(1894~1986)に大命を降下した。
イーデンは「スエズ戦争」での失策により党内でも影響力を失っており、また当初は長期政権を担うであろうと期待された彼が、わずか2年足らずで辞意を表明したため、保守党内にも確固たる後継者がまだ「登場」していない状況だった。こうした非常事態を受け、女王が有する首相任免に関する大権も強大化したものと思われる。
さらに、そのマクミランが6年後の1963年10月に、病気を理由に突然辞意を表明した際にも、保守党内には「自然に登場できる」ような後継者は見あたらなかった。このときは病院に見舞いに訪れた女王に対し、マクミランが外相のヒューム伯爵(1903~1995)を推挙して「ヒューム首相」に決まった。
なお、このときすでに、イギリスでは国政の中枢を担うようになった庶民院で発言できない貴族院議員は首相にはふさわしくないとの判断で、首相職は庶民院議員に限られるようになっていた。ヒュームの場合には、ちょうどこの年に議会を通過した貴族法により一代に限って爵位を放棄し、補欠選挙で庶民院議員に当選してから首相に就任した。
「君主制にとっては政治的中立こそが成功の最大の秘訣」
ところが、総選挙に慣れていないヒュームが首相に就いたこともあってか、翌64年10月に保守党は僅差で労働党に敗北し、労働党のハルロド・ウィルソン(1916~1995)が政権を担当することになった。そのウィルソンから「お上品な時代錯誤(an elegant anachronism)」と揶揄されていた保守党の党首選びのあり方は、党内からも批判が挙がるようになっていた。
こうして1965年2月からは、ついに保守党にも下院議員団による党首公選制度が導入されることに決まった。それも当初は現職が辞意を表明した場合に限られていたが、1975年からは毎年改選されるように変わった。労働党でも、議員団、労働組合、党員代表による全体会議での党首選挙が1981年から始められるようになった。
こうして、いまや首相任免に関する国王大権は形式的なものとなってしまったが、女王は敬愛する祖父のジョージ5世から引き継いだ叡智に基づき、保守・労働の二大政党の間で公正中立の立場を貫き、議会政治の危機にあたっては、各党指導者と協力しながらその解決に努めている。女王の最新の評伝にもあるとおり、「君主制にとっては政治的中立こそが成功の最大の秘訣」なのである。
英連邦の女王、コモンウェルスの首長として
そのエリザベス2世も、国制の上では、ヴィクトリア女王やジョージ5世以上に難しい立場に立たされているといえる。
彼女は、①グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国の女王、②カナダやオーストラリアなど海外一五ヵ国(英連邦王国)の女王、③コモンウェルス(旧英連邦諸国)の首長、というそれぞれの地位にある。そしてこの三つの間で「板挟み」になることも稀ではない。