ソ連になっていてもおかしくなかった新疆北部
——中華民国時代から歴史に登場して東トルキスタン共和国政府にも参画し、その後は中国共産党員となって文革も生き抜いたウイグル族幹部セイフディンは、本書『新疆ウイグル自治区』でも詳しく語られている、非常にユニークな人物です。ただ、彼が1940年代の時点で望んでいたであろう、東トルキスタンの国は、結局実現しませんでした。
【熊倉】そうなのです。中華人民共和国が建国される直前、1949年9月に周恩来が「我が国は連邦制をやらない」と表明します。でも、そのころには内モンゴルなり東トルキスタンなりの親中共指導者は中国共産党の支配下に入ることを表明していますから「連邦をやらないなら中国に入りません」とは、現実的には言えるものではありません。
——当然、それについて「騙された!」と憤ったり、「ならば独立する」「中国ではなくソ連側に入る」などと考えたウイグル族は多く、その後も火種がくすぶるわけですが……。
【熊倉】1957年の反右派闘争で、そうした人はみんなパージされます。それでも、セイフディンのような一部の有力者はその後も一目置かれていました。もともと中国共産党が来る前からソ連と交渉していた人物で、ソ連共産党員の身分も持っている。建国前後の時点で彼らが本気で立ち上がり、自分たちはソ連に入ると主張していれば、新疆(すくなくともその一部)は中国ではなくなっていたかもしれません。
——中国は新疆を「旧来からの神聖な祖国の一部分」と主張していますが、まったくそんなことはなく、ソ連でもおかしくなかった土地ですね。特に1940年代の東トルキスタン共和国があった新疆北部(現在のイリ・カザフ自治州付近)については。
【熊倉】ええ。それゆえセイフディンのような人物は、中国共産党としても無視できない存在でした。ただ、建国後に成人した世代のウイグル人のエリートは、もはやソ連とつながって中国を割ろうというような大それた考えは持てません。「なぜ自治共和国じゃなくて自治区なのか?」という疑問も、持たずに生きていかなくてはならなくなりました。
数は多いが実権がない少数民族幹部たち
——あまり日本では知られていませんが、そうしたウイグル族の党幹部たちは中共体制に過剰適応して、毛沢東体制を熱烈に支持して文化大革命も礼賛した結果、政治のパラダイムシフトが起きた改革開放期に姿を消してしまいます。このことも、ウイグル族が自治区内で政治的な影響力を失う理由になったのでしょうか?
【熊倉】ええ。政治変動に振り回された人がはじき落とされ続け、残った人は独裁体制になおさら従順になるよりほかはなくなりました。中国共産党の天下のもと、本人がよりよい生活を実現すること以外にできることはなくなるのです。
たとえば、ウイグル族幹部の出世頭だったヌル・ベクリなんかはものすごい秀才です。優秀なウイグル族は中国共産党員としてリクルートされ、幹部として出世して、体制内でいい生活が保障される。ただし具体的な政策決定のラインには入れない。そこに体制内を生きる少数民族の悲哀を感じます。
――そうしたウイグル族のエリートのなかには、高度な中国語教育を受けているのでネイティブの漢族よりも完璧な普通話(中国の標準語)を話す人がいます。AIが喋っているみたいな、逆に人間味を感じない「正しい中国語」です。これも中国の少数民族の悲哀でしょう。
【熊倉】近年の新疆で「親戚制度」や職業訓練センターの設置、中国語教育の強化など、漢族の“善意”でウイグル族への実質的なジェノサイドがおこなわれている一因にも、少数民族幹部の権限や発言力の弱さが関係していると考えています。
少数民族幹部は、実は人数は多くいるのですが「ガラスの天井」がある。中央では当然活躍できません。新疆でもお飾りとして“トップ”に置かれることはありますが、実権は決して与えられない。そうなると当然、現地の人たちの気持ちが政策に反映されない。本来、問題がここまで複雑になる前の1980~90年代に解決しておくべきだった問題だと感じます。