息子・義尚の誕生から将軍跡継ぎ問題に発展

この義尚こそが、将軍の後継者になるはずだが、ややこしい事情があった。「もう自分には男子ができない」と、その前年に義政は出家していた弟の義視に頼み込んで、還俗(僧侶をやめ俗世に戻ること)させてまで養子とし、将軍後継者としていたのである。

あまりにタイミングが悪すぎる。「一体、何をやってくれたの、あなたは……」と富子が苛立ったとしても、不思議ではない。富子はなんとか我が子の義尚を将軍にしようと、後見役の山名宗全や日野家の権威をバックにして、各方面に働きかけていく。

そこに幕府の実力者である細川勝元と山名宗全の対立などが起こった結果、応仁の乱が勃発することになる。これが「富子が息子を将軍にしたがったために、応仁の乱が起きた」と批判されるゆえんである。

だが、応仁の乱は、そもそも守護大名・畠山義就とその従兄弟・畠山政長の家督争いが、火種となっている。義就には山名宗全、政長には細川勝元らといった有力大名が味方したことで、争いは激化。1467年5月26日に、細川方が東軍、山名方が西軍として、全面衝突することになった。

つまり、将軍跡継ぎ問題は「応仁の乱」につながった1つの原因ではあるが、富子だけに責任を問うのは違うだろう。

頼りにならない夫の代わりに利害関係を調節

そもそも正妻が我が子を将軍にしたいと考えるのは、当然のことである。むしろ責められるべきは、腰の定まらない将軍の義政ではないだろうか。義政が、富子との間に生まれた義尚を後継者に決定したのは、1469年とあまりにも遅かった。

頼りにならない夫にかわって動いたのは、富子である。ゴタゴタを終わらせるべく、仲違いしていた義政と義視の兄弟を和解させたうえで、西軍の好戦派である大内政弘と幕府との交渉を取り持った。

その結果、大内に守護職として4カ国の所有権を持つことを認めて、官位も昇進させ、そのかわりに京からは撤退させた。そうなると、もはや戦う意味もなくなったので、畠山義就も撤退することになる。

何かと表に出る女性は「悪女」とされがちだが、富子もまさにそのパターンだった。富子は利害関係の調節がうまく、「応仁の乱」でもその強みが発揮されたのだ。