日野富子が「日本三大悪女」といわれるワケ
京都の人が「先の戦争では……」「あの戦争では……」と言うときの「戦争」とは、何を指すか。なんでも昭和の太平洋戦争ではなく、室町時代の「応仁の乱」のことを言うとか。
伝統を誇る京都人にまつわるジョークとしても知られているが、「応仁の乱」は、そう語り継がれるほど、大規模な戦だった。室町幕府の8代将軍である足利義政の後継者争いをきっかけにして、全国の守護大名が二つに分かれて争うことになったのである。
激しい戦いは、1467年から1477年にかけて、実に11年も続いたというから、ただ事ではない。そんな途方もない戦を生んだきっかけとされているのが、日野富子である。
「応仁の乱」を引き起こしたとされる日野富子は、政治に干渉しすぎたことで、北条政子や淀殿と並んで「日本三大悪女」とされている。はたして、どれだけトンデモない人物だったのだろうか。
名家から嫁いだ先で世継ぎ問題に悩まされる
日野富子は1455年、8代将軍である足利義政のもとへ嫁いでいる。富子は16歳で、義政が20歳のときだ。
日野家は平安時代以来の貴族の家で、鎌倉時代以降は、多くの女子を女房(女官)として朝廷に送っている。室町時代になると、3代将軍の足利義満以降は、日野家から将軍の正妻を出すのが伝統となっていた。
富子はそんな由緒ある名門で、何不自由なく育った。そして、これまでの日野家と将軍家との関係性に従って、富子も将軍・義政の正妻として迎え入れられたのである。
ただ、富子が輿入れしたとき、すでに義政には側室(正妻以外の奥さん)の女性が何人かいた。それだけではない。婚姻の前に2人の子どもが、婚姻のあとにも1人の子どもが側室との間に誕生している。富子としても複雑な胸中だったことだろう。
正室として、なんとかして世継ぎを生まなければ……。そんな思いを日々巡らせていた富子だったが、結婚してから4年後、ついに妊娠する。子どもが男の子か女の子だったかは両方の説があり、はっきりしない。確かなのは、不幸にも富子が宿した第1子は死産、あるいは、産後すぐに亡くなっているということだ。
喜びが大きかったぶん、悲しみも深い。悲嘆に暮れるなかで、富子はこんな恐ろしい噂を耳にすることになる。